ベルトコンベアーちょこん。


はじめまして。理学療法士兼キャリアセラピストの西野英行です。少し長いですが、プロフィール代わりに文章を書きました。お時間がある方はどうぞお付き合い下さい。

~~~~私は19歳頃まで音楽が大好きで、ギターを家の自室で演奏して悦に入ることが趣味でした。若いって素晴らしいですね。

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自分でも曲を作ったり、機械で打ち込みをやったりして、デモテープをメジャーな音楽会社に送っていました。
ばら撒いていた、といった方が正しいかも。 結果、鳴かず、飛ばず‥‥音沙汰なし。
 
 本当に届いたのかな?と何度音楽会社に電話をかけて確認しようかと思ったことか分かりません。でも、結局怖くて、電話をかけることができませんでした。
 
 
やがて、何となく音楽のことは無かったことにして、生活のため、俗世間のルールに従って、普通の仕事を探し始めます。24歳の頃だったでしょうか、ささいなきっかけで理学療法士という仕事を知りました。
 
専門学校に行きたいと親に伝えました。当時私は実家に住んでいました。親は協力してくれるとのことでした。
 
 理学療法士を仕事にしよう!と思うまでの高校からの学生時代、私は沢山のアルバイトをしてきました。
  • アパレルの販売員
  • 飲食店
  • ホテルマン
  • コンビニ店員
  • パン工場
  • 日雇いでの花火大会の設営
などなど‥
 
 沢山の業種を経験したことには訳がありました。
 
これは私の小さくて壮大な計画でした。
どの業界も最低半年以上勤め、自分がこれだ!という仕事を探す。
 
そんな計画でした。

アパレル時代「30歳独身 ギャル店長」

アパレル販売員のアルバイトをしていた時は、ギャルの格好をした30歳くらいの店長の元で働きました。
 
アパレルと言っても、田舎のスーパーの中にあるような、センスも何も無い、安さだけが売りの服を叩き売りしているようなお店でした。
  
毎日せっせと服の棚卸をしたり、バーゲンの時なんか、畳んだ瞬間広げられる服をまた畳み直して、また、広げられて‥ってことをしていました。
 
悟りを開きそうでした。諸行無常とはこのことです。 最終的には、服をお客さんに広げられない様にわざと邪魔なとこに立ったりして・・。
 
ギャル店長は、当時調子に乗っていた私と(俗にいう若気の至り真っ盛り期です。)一向に反りが合わず、よく言い争いをしました。
 
 なんたって気に入らなかったのは、ギャル店長が昼飯を食べに行った後でないと、私達アルバイトの休憩時間が貰えないこと。
私はポケットに手を突っ込み、「まだ(休憩)行かないんすか?!早くして下さいよ!」と毎日のように突っかかっていました。
 
 
私の素行が悪すぎて、ギャル店長と、その上司(こちらは普通のおっちゃんでした。)と三者面談したこともあります。
やがて、ギャル店長がどうしても気に入らない私は、詳細は覚えていませんが、くだらない言い争いをして辞めてしまいました。
 
当時は反抗しかしていませんでしたが、私はこのギャル店長から「好きなことを仕事にする」人がいることを教えて貰いました。
 
ギャル店長は、毎日、遅くまで残業し、メイクの崩れも気にせず、まるで苦行か修行の様にがむしゃらに服を畳み、私には「服を広げて仕事を増やす人」にしか思えなかったお客さんに精一杯の笑顔で接していました。
 
 自分の仕事に誇りを持って、アホなアルバイトに呆れつつも、好きなアパレルの仕事を通して輝こうと場違いの田舎で精一杯頑張っていました。

  日雇い「ピラミッド建設」バイト

ある時は、日雇いの花火大会の設営のアルバイトをしました。
 
 当時は、登録制のバイトが都合良く稼げる!という噂が友達の間に広まり、お金の無い私は飛びつきました。
 
「簡単なお仕事です」というキラーワードにまんまと乗せられ、初めての日雇いバイトが花火大会の設営でした。日給8000円でした。
 
7月の日中、炎天下の中、淀川の河川敷を巨大な重たい木製ベンチ(4人程座れる位の大きさでしょうか)を基本1人で背中に担いで運び、設営するという「簡単なお仕事」でした。
  
集まった面々は、8人程度だったと思いますが、パッと見ただけで何やら一癖ありそうな人達ばかり‥
  
40歳位の中途半端に高級感のある服を着たおっちゃん(恐らくニセブランド品でフル装備していたのだと思います。)や、一言も喋らず、ずっと下を向いているこれでもかっていうくらい内向的な子‥など。 
 
ギラギラした太陽の下、暑くてすぐにみんな上半身裸になりました。当然女性のアルバイトなどいません。
 
おっちゃんもニセブランドの白いシャツをかなぐり捨てました。内向的な子は長い前髪が汗でぐっしょりしていました。
  
上半身裸の男達が、頭にタオルを巻き、巨大な木製ベンチを一人一個背負い、全身泥まみれで、呻りながら一列に並んで目的地に向かって行進しました。
 
その姿は、シンプルに「THE・労働」です。古代エジプトのピラミッド建設を彷彿とさせます。
 
 
夕方、もうすっかりしゃべる気力も無くなった頃に、なぜか前歯が全くない25歳くらいの土方系イケメンが現れ「お疲れさん!」と言って封筒を渡されました。
 
中に野口英世の顔が8人分見えました。
  
私は服を着て、疲れ切ってしまって、ため息を付きながら誰とも喋る気力がなく、封筒をカバンに入れ、そのお金で自動販売機でコーラを買い、飲みました。
 
帰りの電車で気を失う様に寝ました。いや、より的確な表現をすると、寝ている様に気を失っていました。
 
あるいは、泥の様に眠りました、でも良いかもしれないですね。文字通り泥まみれでしたから。
 
より正確な表現をすると、眠っている泥でした、かもしれません。実際周りからはそう見えていたでしょうし。
 
 
 私はこのアルバイトで、「単純な労働とその価値」を学びました。労働の原点の価値を学んだと言ってもいいと思います。
 
体力溢れる若い自分の全身全霊の体力を注いで得られるお金は、8000円/日でした。

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 ベルトコンベアーちょこん。

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ある時は某有名パン工場で働いていました。

 
夜勤帯の勤務を自ら選びました。なぜなら、時給が良いからです。当時の私は馬鹿なので、短い時間で楽して稼げるじゃん!位しか思っていません。
 
ひたすらベルトコンベアーに乗せられてくるモンブランケーキの上に栗をチョコンと乗せることを6時間ぶっ続けで毎日やっていました。
 
この栗が曲者で、ガッ!と掴むと粉々に砕けてしまいます。そーっと、いかにそーっと栗を素早く掴むか、それだけがこの仕事の難しいところで、コツでした。
  
なぜかバイト開始から1時間後に休憩を取らされ、その後ずっとベルトコンベアーでちょこんをしていました。
 
 意識があるのは初めの1時間位です。その後は眠たさと単純過ぎる労働のため、朦朧としてきます。はっと気が付いて、もう1時間くらい経ったかな、と思って時計を見たら10分しか経ってない、ということの繰り返しです。
 
わかりますよね?この感覚。
 
ただ、時間が過ぎることをのみ心から願い、ちょこんを繰り返します。最早私は私ではなくなり、機械の一部になった気がしていました。
  
もうベルトコンベアーでケーキが流れてきているのか、私がベルトコンベアーで流されているのか、何を何に乗せているのか、
何が何だか分からない状態で6時間立ち尽くして、この仕事で唯一得たスキル、「柔らかい握り」を存分に活用していました。
 
 
 私は「自分の時間を切り売りすること」をこの仕事で学びました。
 
私の二度と戻らない青春の時間(深夜帯)は1万円/8時間でした。 

まとめ

 こんな感じで他にもたくさんアルバイトをして色んな経験を積みました。
 
働けば働くほど、私は、一体だれが作ったのか分からない「働いてお金を得て生活する」という世の中の仕組みに、皆がいつの間にか組み込まれ、仕方ないと諦めたり、苦しんだり、喜んだりしていることが不思議でなりませんでした。
 
 
現在は理学療法士の資格を取得し、ブログで自身の経験を元にキャリアやリハビリにてついて情報発信しています。
宜しくお願い致します。
 
 
自己紹介記事.2「ペタペタペタ・・・ペタペタ・・の恐怖」に続きもあります。良ければご一読下さい。

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