「自由・平等・正義」という言葉はただの”キャッチコピー”騙されてはいけない

自由、平等、正義


最近、「経済的に自由になる方法!」という言葉をネットで見かけました。他にも平等を謳い、正義を声高に主張する団体・組織が世の中には結構たくさんあります。




一見すると綺麗で素晴らしいものが実は有害である、という場合が世の中には少なからずあります。

白くてサラサラの砂糖、バラの棘、スィーツなどなど。

 

自由・平等・正義という言葉たちも、一見すると綺麗で、素晴らしい、私たちが求める理想の世界を作るために重要なキーワードであるかのように思います。

しかし、一段深く考えてみると、本当にそうなのか?という疑問が湧いてきます。

自由とは何か?

自由とは、一般的には”何も縛りや規制がない状態”のことを言います。

つまりは、しがらみやその他のうっとおしいことを無くした、すごく解放的な状態を指します。

しかし、この世に本当にそんな状態が存在するのか、私は甚だ疑問です。本当の完全な自由があるとしたら、もはや息をしていない状態、つまり”死後の世界”ではないか?と思わざるを得ません。

 

自由を求めるとか、自由になると聞くと素晴らしく正しい声明のように聞こえなくもないですが、実際は実現することはかなり難しく、相応の自由を獲得するためには、かなりの代償を払う必要がある可能性が高いです。

 

歴史を見ると「自由」というキーワードといつも一緒に出てくる言葉が「闘争」や「戦争」です。

特に階層闘争と自由を求める運動はほぼセットで出てくるのではないでしょうか。

 

個々の人間の間には、どうしても格差があるし、それを埋めようとすればするほど、人は苦しんで、そこから解放された状態、究極的には自由を求めます。

支配する者とされる者、これは姿を変えたり、支配するモノを変えつつ、一見して分かりにくいようになって行っているだけで、いつの世も歴史上に存在し続けています。

 

そうそう、“支配されている”と書いて思い出しましたが、私はまず、何よりも税金から自由になりたいです(笑)

車に乗っても税金、働いても税金、買い物をしても税金。住んでるだけで税金。

こりゃやってられないと息抜きにお酒を飲んでもタバコを吸っても税金。

もはや、息をしているだけで税を払うシステムが、世の中の隅から隅まで浸透していると言っても過言ではありません。

しかし、税金からの自由は絶対に叶わないし、無理してそれを叶えると、税金からは自由になるかもしれませんが、下手すると刑務所に入り、身体と精神の自由が無くなってしまうかもしれません。(泣)

これでは”自由のトレード”をしただけのことで、私の人生の自由の総量はむしろマイナスになってしまいます。

よって、私は雀の涙ほどの収入から税金を払い続けている訳です。

 

生きて何か活動をしている限りは、完全な自由などありえない、存在しないと思っておいたほうが無難だということは間違いありません。

自由という言葉は実は”キャッチコピー”

自由を勝ち取ろう!というと、いかにも素晴らしいことのように思いますが、実際はどうなのでしょうか?

例えば、フリーランスで働くことを自由とする発言もネットで散見されますが、実際私は”全然自由ではない”だろうなと思います。

自由とは何物にも束縛されない状態のことですが、フリーランスは会社などの所属する組織に束縛されない、という一点においてのみ自由なだけで、その他のことは束縛だらけでしょう。

むしろ、ずっと働くことを意識していなくてはならない、OFFがないという点では、考え方によっては、フリーランスになると”労働の精神的拘束からの自由”からは遠ざかるかもしれません。

企業に雇われていれば、休日は寝ながらお酒を飲んで何もかも仕事のことを一切忘れていても特に問題がなかったりします。

そして、そんな休日を過ごす人が世の中の大半を占めています。

 

経済的自由を謳い「あなたも自由になりませんか?」などとその方法を伝授する、という内容のネット記事も見かけますが、少し詳しく見てみると、何かを読者に売りつけるために自由という言葉を使い、誘導していることがほとんどです。

大体、本当に経済的に自由なら、いちいちコストや手間をかけてそのようなホームページなりネット記事や広告を作り、読者に何かを買わせて収入を得る必要はありません。

自由という言葉は、その甘い響きを利用して、強力な”キャッチコピー”として利用されることが多いのかもしれません。

平等とは何か?

平等も自由と近いニュアンスを持つ言葉で、差別をなくし、でこぼこした世の中をフラットに均す(ならす)ことを意味する言葉です。

私も社会はみな平等になるべきではあると思いますが、人と人とが集まって構築される社会では、完全に何もかも平等、というのはかなり実現が困難で無理があります。

なぜなら、全く同じ人間など一人たりとも存在せず、個別性があるのが当たり前で、それに応じた社会が形成されるからです。

 

同じ労働をして、一方の人は家柄が良いから給料がたくさんもらえ、もう一方の人は給料が極端に少ないとか、そういったレベルでの酷い差別や不平等は当然、断固無くすべきです。

しかし、奴隷や封建制度が存在した時代ならまだしも、現代の日本で、あまりにも平等、平等とそこにこだわって主張する人には何かしら裏の思惑があるか、コンプレックスの裏返しである場合も少なくないのではないか、と思います。

 

私は、女性に対して「私を斎藤工と同等に扱え!」とは思いませんし、正直、私と双子の兄ですら親から平等に扱われるべきだ、などとは思いません。

なぜなら、いくら親だってそんなことできる訳がないからです。

むしろ、私たちのことをよく理解している親だからこそ、私には私に合った対応を選ぶだろうし、兄には兄に合った接し方をするでしょう。

それを差別だ!というのは少し違うような気がします。

生まれながらに皆一人ひとり違いがある訳で、何もかも平等なんてことはありえません。

積極的な差別は断固ダメですが、消極的な”区別”は世の中に存在するのが普通ではないでしょうか。

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正義とは?

”正義”は上で紹介した2つの言葉(自由・平等)よりももっと分かりやすく偏った極端な思想を現す言葉です。

しばしば、正義という言葉は戦争の火種になることもあります。

十字軍の遠征に代表されるように、正義を掲げることは戦争の際に兵士を鼓舞するための言葉として大変有効です。

特に国家レベルで正義という言葉を使い始めると、戦争を始める気満々だと思ってほとんど間違いないのではないでしょうか。

 

正義の名の元に、誰だか分からない異国人を倒す。

歴史を見ると、そういった使い方が最も正義という言葉の有効な使い方と言えるかもしれません。

まとめ

自由も平等も正義も、明白な定義は一応存在しても、実は世の中に実体はないようなもので、個人や思想によってその実質の内容はまるっきり違ってくる言葉なのです。

ただ漠然と美しく、正しい、素晴らしいものだと思っていると、相手に良いように利用される可能性もかなり高いのではないかと思います。

 

そして、実際にほとんどの場合、相手を意のままに動かしたい場合に、特に甘美な響きを持つそれらの言葉が多用される、というのが筆者の見解です。

 

自由・平等・正義という綺麗な言葉は、大衆を惹きつけるための強力な”キャッチコピー”だと思っておく方が賢明かもしれません。

 

特に、自由・平等・正義という言葉を使って、ほかの人を巻き込み、己の主張を貫こうとする人には充分注意して下さい。

 

しかし、こう言ってしまうと特に若い人の中には何だか夢も希望もないように感じる方もいるかもしれません。

なので、少し補足をしておきます。

 

もちろん、これらの言葉にも当然良い面があります。

私が述べたこれらの言葉「自由・平等・正義」は、実は、個人で密かに想っているだけだと他人にはあまり害がなく、むしろ素晴らしく良い影響があります。

  • もっと精神的な自由を得るために今いる環境から抜け出そうと必死に努力する。
  • 誰でも他の人には平等に接すると心に誓う。
  • 自分の中の正義に照らし合わせて事象を判断し、行動の指針とする。

これらはとても素晴らしいことで、間違いなく個人の人生において重要なことです。

よって、これらの言葉は自身の内で完結させているうちは本来の意味を保つことができ、正しく、強く明るい輝きを放つことができます。

 

しかし、それが個人の内に強く充満し、個体の内と外のボーダーを超えて他人に向けてその言葉が発せられるようになった途端、本来の眩しいばかりの輝きはすっかり影を潜め、意味が全く異なってくる場合が大変多いのです。

  • 自由は、時に、他の人の自由を奪う目的のために使われる。
  • 平等は、時に、優位な立場にいる人を、正当な努力も実績も関係なく引きずり下ろして、相対的に自身の地位を浮上させるために使われる。
  • 正義は、時に、迷っている者たちを納得させ、その者達の意思に関係なく、意のままに一つの方向へ無理やり走らせるために使われる。

 

人間、年齢を重ねると、これらの言葉の胡散臭さに気付き、何となく距離を置くものですが、若い人たちは特にこれらの一見甘美な言葉に誘惑されてしまうことも多いと思います。

自分の中でこれらの言葉を留めておき、指針とするのは大いに結構なことですが、他人がこれらの言葉を使い、他の誰かの行動を促し、求めているような場合、まず疑うのが基本的に正しい態度である、ということを念頭に置いておくと良いのではないでしょうか。

 

< 編集後記「正義の味方はやたら暴力的!」 >

だんだんと暖かく、ソロソロと外に出ていきたくなる季節になってきました。

今日は日曜日。近所のスーパーでの「プリキュアショー」に妻、子供達と一緒に行ってきました。

私はまったく興味がないのでストーリーもよくわからず、かろうじて理解できたのは、「いいもん」と「悪者らしきもの」がステージに立って戦いを繰り広げているということくらいです。

 

ここでも正義の名の元に、たった2人の悪党をプリキュア戦士5~6人で痛めつけるという見るに耐えない残酷な展開が、純粋な子供たちの前で繰り広げられていました。

そして、家に帰って来ると、なぜか何もしていない私を悪者に仕立て上げた娘たち2人(2歳と4歳)が、パンチ、キックを繰り出してきます。

正義という言葉は、このように純朴で善なる家庭想いの父親を痛めつける場合にも使われるのです。

ヒドイです。

少し腕に自信のある私(元剣道部)でも、さすがに2対1では多勢に無勢。膝から崩れ落ちた私の上に2人は馬乗りになり、「できあっがり!」と叫んだのでした・・。

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