
私は自分に子供が生まれてからというもの、経済や政治に大変興味を持つようになりました。
経済って、人生にとってすごく大切なお金の話のことなので、もっと主婦から子供まで知っていても良いはずでは?と思うのですが、世間で話題になることは少ないですよね。
ニュースで見る経済学者は訳が分からない小難しいことを言っているし、何だかとっつきにくい感じがしますしね。
経済学は、基本的に「お金は循環している」という前提条件の上に成り立つ学問です。
誰かが千円を払えば、その千円を他の誰かが受け取る。
これが経済学の基礎中の基礎です。
その循環をより効率的にしたり、無駄を省く方法を考える学問こそが経済学だと思います。
当然、経済学では社会で流通しているお金の相互関係や時代的・文化的背景なども考慮するため、すごく複雑で全容を理解するのは簡単ではありません。
しかし、私はこの経済学って実は結構穴だらけで、だからこそ、一般人の世間に広く浸透せず、経済学者の言う予測は当たらない、などと言われるのではないかと思っています。
200円に”200円分の共通の価値”があるとは限らない
経済学では、お金は「共通の価値」とされています。共通の価値とは、誰にとっても100円は100円である、ということです。
しかし、本当にそうなのでしょうか?
例えば、私がスーパーに行って、大根を買うとします。
大根は1本200円します。
私が大根を所有し、おでんをおいしく食べるために支払った200円は、レジに収められ、スーパーの売り上げになり、そこから人件費や光熱費などのコストが支払われます。
こうやって世の中でお金が循環します。
この流れこそが経済です。
しかし、実は、私が支払った200円は、死ぬ間際まで苦労して、1か月もの間不眠不休で文章を書き続け、胃腸と眼球をぼろぼろにして築き上げたブログにやっと入ってきた広告収入の200円だったのです。
いわば、渾身の200円です。
もう、その大根は捨て身の大根と言っても相違はなく、最後の晩餐として、死をも恐れない覚悟でおでんをおいしく頂こう、と身が焼かれる想いで、なけなしの200円を支払ったのです。
私にとっては命掛けの200円な訳です。
一方で、身なりの非常に良い、どこぞの英国紳士風の人が、同じスーパーで同じ大根を200円で買ったとします。
もちろん、支払いはアメリカンエキスプレスのブラックカードで一括払いです。リボ払いではありません。
その紳士は多数の不動産を所有しており、晩にゆったりと高級ワインを楽しんだ後で眠りに付き、朝起きると少なくとも毎日10万円は口座に入っているような生活を送っています。
彼にとっては200円はほとんどタダ同然と言っても良い金額です。
寝ていれば勝手に入ってくるのですから、また寝れば良い、その程度のものです。
紳士は、その200円で購入した大根を、飼い犬のドーベルマンの餌にしてみようと考えていました。たまには野菜も食べさせないと栄養が偏ります。
しかし、犬は見向きもしません。(そりゃそうだ。)
結局大根はそのまま生ごみとして捨てられてしまいました。
このような二人が同じ金額の200円を支払ったとしても、経済学上は「同じ価値を交換した」ということになります。
つまり、200円はあくまで200円の価値しかない、ということになります。
その背景にあるものはすべて除外、ないものとして考えるのです。
私は思うのですが、これは果たして「同じ価値」と言えるのでしょうか?
私は、同じ200円でも内包する価値が異なる場合が存在するのでは?と思うのです。
お金を単純に”共通の価値”と捉えるだけでは本質に気付けない
恥ずかしながら、私は何度も夢想したことがあるのですが、みなさんは、「宝くじで1億円当たったらどうしよう?何に使おう?」と考えたことはありませんか?
そんな馬鹿なことを考えるのは私ぐらいなものだと笑われるかもしれません。
でも、長い人生、そういうことでも考えないと心が持たない時だってあります。
想像力は人間が持つ能力の中で最も偉大で特別なものです。
宝くじで得たお金1億円は、先ほどの大根1本のお金200円より、金額は文字通りけた違いですが、労働をして得たものではありません。
楽して簡単に得たお金です。
いわば”あぶく銭”です。

あぶく銭とは「仕事もせず、楽して得たお金はその大切さを身をもって体験していないから、すぐに使ってしまい、泡(あぶく)のように消えてしまうお金」という意味です。
裏を返せば、この言葉は一般的には「ちゃんと働いて苦労して手に入れたお金は手元に残る」という意味にも使われたりします。
しかし、これもまた本当なのでしょうか?
例えば、水商売を生業としている人は、苦労して稼いだお金をホストクラブで湯水のように使い切ってしまう人が多い、と聞いたことがあります。
私はキャバクラで働いたことがないので、本当かどうかは知りませんが、確かにそんなこともあるだろうな、と思います。
彼女たちは、お金のために、心底嫌いな客にもお世辞を言い、一生懸命笑顔を作ります。それは並大抵の苦労と努力ではないでしょう。
そうやって得たお金は決してあぶく銭ではない、と私は思います。立派に働いて得た正当な労働の対価です。
しかし、彼女たちは、それこそ泡(あぶく)のようにそのお金をホストクラブで使ってしまいます。
一体なぜなのでしょうか?
心底軽蔑するようなセクハラまがいのことばかりを言う男性に、「すごいですね!」などとお世辞を言って満面の笑顔で接待する。(私にはとてもできそうにありません・・)
そのようなことを毎日繰り返して得たお金。相当なストレスを日常的に感じていてもおかしくありません。
きっと、私なら、給料日にそのお金を受け取った時「私はこんな紙切れのためにこんなにも苦しい想いをしたのか!」と思うかもしれません。
お金を稼ぐために自分を、いや、自分の感情を殺してストレスを感じ続けると、お金に「仕返し」がしたくなる。
考えられないくらいの苦労をして稼いだお金に、さも意味がないかのように、憎いお金をばらまき、その存在を否定したくなる。
そうやって心のバランスを取り、気持ちを落ち着かせようとするのかもしれません。
「私はあんた(お金)なんかに使われているんじゃない。逆にお前をこんなに無意味に使ってやる」そういった無意識の想いが隠されているのかもしれません。
これらのことから私が推測しているのは、
「労働とは楽過ぎても、辛すぎてもダメなのではないか?幸せになれないのではないか?」
ということです。
楽して得たお金は有難く思わないから無駄使いしてしまう。
逆に、たくさん苦労して得たお金も無駄使いしてしまう。
お金はあくまでただの「価値」として経済では流通しています。
しかし、こういった例を考慮すると、お金を「価値」とだけ認識していると、人生で非常に大切な、”お金との付き合い”がどうも上手く行かない気がしてきます。
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私たちのリアルなお金の本質は”感情も含んだ価値”
経済や市場などのマクロの視点で見ると、確かに金額の大小が重要で、価値があるところに多額の資本が集まる、というのは正しいと思います。
しかし、私たち一般庶民が生活する範囲のミクロの経済としては、実は金額の大小を考慮するだけでは足りなくて、それが得られる背景にある感情や満足感、充実感なども充分考慮するほうが良いのではないか、と思うのです。
めちゃくちゃ稼げる水商売でも、苦労が多すぎて、上述の例のようにストレス発散のためにどんどん使ってしまえば、結局長い目で見ると損をしている場合もあるかもしれません。
もしその人が、人と接することが好きならば、水商売よりは給料が安くとも、訪問ヘルパーなどで「ありがとう!」と心から感謝され、心から笑顔になれる仕事をして給料を貰った方がストレスも各段に少なく、稼いだお金に復讐しようと無理やり使ってしまうこともないかもしれません。
長い目で見ると、実は、訪問ヘルパーのほうがその人にとってははるかに儲かる仕事かもしれないのです。
他の例を出すと、給料がすごく良い外資系の企業では、ほとんどの場合、超成果主義です。成果が出せなければ給料はずっと横ばい、下手したら減給も当たり前の世界です。
そこで、一時的に頑張って多額を稼いでいても、客からいつも文句を言われ、上司からも成果を上げろと言われ続け、少し力を抜くと減給してしまう。
人は何のために働いてお金を稼ぐのでしょうか?きっと、幸せになるためではないでしょうか。
そんな張りつめた環境で働いて得た多額のお金は、果たして本当に私たちを幸せにしてくれるのでしょうか?
経済学者が語るお金ではなく、私たちが生活をしていて日常的にやり取りしている活きたリアルなお金については、どうも、”感情を含んだ価値”を考慮する必要がありそうです。
仕事を選ぶ時は給料だけで決めてはいけない
マクロの経済ではなく、私たちのリアルな経済市場では、お金の本質は”感情を含んだ価値”と定義できそうだと書きました。
この知識を実生活で活かすためには、仕事を選ぶ時に、いくら高給でも、苦労し過ぎるものは選ばないことが重要だと思います。
私たち市民のリアルなミクロの経済では、100万円の給料で苦労値(苦労の程度の値)が80の仕事よりも、30万円の給料で苦労値が20の仕事の方が長い目で見ると儲かるのです。
経済学者はきっと、月収100万の方が儲かるに決まっている、と断固主張するでしょう。そして、そう信じている人が世の中にはたくさんいると思います。
でも本当はそうではありません。
もちろん、同じ仕事をしていても、ある人は苦労と感じ、ある人は楽な仕事と感じるかもしれません。苦労値は人によって全然違うということです。これは非常に個人差があるものです。
よって、旧来から言われているように、自身の適正を認識することは仕事選びの一つの基準として非常に重要なことであるのは間違いないと思います。
まとめ
今、労働市場は、転職も含めて、自身が働きたいところを自分で選ぶ”センス”が非常に重要になってきていると思います。
今後の労働者の減少により、さらにその傾向は強く、重要になってくると思います。
格差が拡大した将来の日本では、給料だけを最優先して仕事や職場を選ぶ人も増えるでしょう。
でも、私たち一般市民は、給料だけを最優先して仕事を選んでしまうと、結局損をすることにもなりかねません。
漠然とした表現になってしまいますが、たとえ給料はそこそこでも”自分にしっくりくる労働”ができる仕事を選ぶと良いと思います。
最後に、就職や転職など、仕事選びで悩んでいる読者の方に、孔子の言葉を贈りたいと思います。
あなたの愛する仕事を見つけなさい。
そうすれば、あなたは人生で働かなくてはならない日は二度とないでしょう。