
以前、家庭持ち、共働きでない療法士の生活について自身の経験を記事にしたところ、結構反響が頂けました。本当にありがたいことです。
でも、私にはあの記事で一つ書き忘れていたことがあります。「あまり収入が無くてもどうやって贅沢をするか?」です。今回は、前回の続編として、このことを書いてみたいと思います。
私は少ない給料でも、家族四人幸せに暮らしていました。本当に楽しかったです。
家庭持ち、子どもがいて共働きをしていない普通の理学療法士の実際の生活(体験談)
でも、もし、みなさんが「よし、うちも共働きせずに頑張ってみるか!」と考えておられるなら、絶対に知っておいて欲しいのが、「ギリギリで少ない給料でいかに贅沢を楽しむか?」という方法や考え方です。
誰だってたまには、贅沢して息抜きしたいですよね。
前回の記事で、私は共働きせず、子どものいる家庭持ちの理学療法士は「普通に生活はできるが、贅沢はできない」という事を書きました。
しかし、実際には結構、贅沢をしていました。
今回は私がどう考えてどんな贅沢をしていたか?ということについて書きます。
よければ参考にしてみて下さい。
ほぼどの職種でも平均給料は下がっている
まず、私や療法士は働いた分、究極に大きく考えると、日本の経済に貢献し、そこから給料を貰っています。
よって、まずは日本の国民目線からの経済状況への考察が必要です。
日本国民の平均給料は年々下がっています。右肩下がりです。
何もリハビリ業界の診療報酬だけが問題なのではなく、他業種も皆同じように給料が下がる不安を持っていると考えてもよいでしょう。
一方で、それと反比例するように、物価(物の価格)は徐々に、何にも考えていない人には気付きにくい程度で上昇を続けています。
ガリガリ君も最近値上がりしましたよね。
ガリガリ君は価格が値上がりしないことで有名だったのですが、断腸の想いで値上げを勇行したのだと思います。
それは周りの商品の物価が上がっているからです。収益を得るためには、価格を上げざるを得ないのです。
また、税金も年々値上がりを続けています。
消費税も、私が小さい頃には100玉を握りしめて駄菓子屋に走り、100円のお菓子を買うことができましたが、今では110円を握りしめていかないといけませんよね。(そもそも最近では駄菓子屋自体があまりないですが。)
近いうちに消費税は10%になるでしょうし、今後もっと上げようとしてくるでしょう。世界の状況を見ていると、それは普通のことです。
要するに、社会全体、日本全体の傾向として、入ってくる収入はどんどん減っているのに、税金や物価は上がり続けているのです。
国民が普通に生活をしていて、余る余剰資金が減っていっているということです。
だから、若い人は貯金が少ない傾向にあります。
リハビリ職は専門職であるがゆえに、専門職同士での意見交換とか、情報収集が身内で完結してしまいがちです。
しかし、目線を少し広く社会に向けてみると、「特別療法士だけが厳しい経済状況ではない」ということが分かると思います。
むしろ、タクシーの運転手とか、事務職とか、今後仕事が無くなるかも知れないと言われている分野の方の方が危機感は持っているでしょう。
療法士のリハビリは今後完全に無くなることは考えにくい職種です。
それだけでも他と比べて恵まれているかもしれない、という視点は必要だと思います。
そもそも贅沢って何?
私は病院勤務時代、収入が少なくても、贅沢だなーと思える経験をしていました。
結婚して子供が生まれまでの独身時代、私は恐ろしく散財していましたが、贅沢とは「お金を使ってできるもの」と考えていました。
みなさんは贅沢とは何だと思いますか?
焼肉を毎日のように食べに行くことですか?
高価なブランド物の服を毎日買うことですか?
広い高級マンションに一人で住むことですか?
飲み屋で女性をはべらせることですか?
”贅沢”は恐らく、私の考えでは、時代によって変化していくものだと思います。
時代背景を考えることで贅沢とはなにか見えてくる
戦時中の物がないとき、贅沢とは、おにぎりを目一杯食べることだったかもしれません。
戦後、贅沢とはテレビを一家に一台所有することだったかもしれません。
私達の親の世代では、海外旅行に行くことだったかもしれません。
そう考えると、時代と共に贅沢と思われる行為や物が変わってきていると思います。
贅沢とは、その時代に成しがたいこと、つまりは、一定の恵まれた条件が揃わないとできない経験を贅沢っていうのだと思います。
この一定の条件とは、お金をたくさん持っていることかも知れませんし、人脈があることかもしれません。
それが時代背景によって異なってくると思います。
食べ物が無くて、みんながお腹を空かせている時代、白ご飯を腹いっぱい食べることは確実に贅沢でしょう。
生活用品がない・充分に供給されていない時代、たくさんの物を持つことが贅沢になるでしょう。
現在、あなたは食べるものが無くて困っていますか?
テレビが無くて、洗濯機もなくて、手と洗濯板で洗濯していますか?
ネット環境が無くて、情報を得るのに人伝えの口コミしかありませんか?
そんなことはまぁないと思います。
海外旅行だって、今では上手くやれば、国内旅行よりも安く、短時間で行ける時代です。
文明の進化により、必要な生活コストは下がっている
時代背景を考察し、その時々の贅沢を追っていくと、明らかに文明は進化していることが実感できると思います。
日本では、電気・水道などのライフラインは充実し、便利な家電製品の登場で生活はより効率的に、より手軽に、低コストで暮らしができるようになってきていることがご理解頂けると思います。
ご存じの方も多いと思いますが、マズローの欲求と言うものがあります。
これは、個人にのみ適応する概念のように思われがちですが、文化や社会、集団にも同じように適応します。
なぜなら、個人の総合体が社会であり、基本的に欲するものは同じだからです。

文化の成熟に従って、社会はライフラインを充実させることで、マズローの唱える段階の一番下層の生理的欲求を満たす、という根源的な欲求を解消してきました。
次に社会が成熟してくると、一段上がって、安全に生活できるように社会は動き始めます。
そうやって、より高次な集団の欲求を満たすべく社会は進化を続けています。
私達が生きている現代では、私達の欲求はどこの階層に位置しているしょうか?
私にははっきりと分かりませんし、人によって若干差があると思いますが、高次の欲求に位置していることだけは間違いないと思います。
要するに、ご飯を食べられるとか、家があるとか、着るための小綺麗な服があるということは、まず当たり前に保障されているのが現在の日本であると私は思っています。
ニュースで餓死した親子のことが放送されているのがその証拠です。毎日そこらじゅうで親子が餓死していたらニュースになりませんから。
で、ここらが私達が最低限必要な生活コストであり、私が以前に書いた「普通に生活はできます」という本意は、療法士として普通に働いていれば、ここが満たされないことはない。という意味でした。
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贅沢とは”濃い気持ち”を体験すること
それでは、現代で、合間に”贅沢をしたい!”と何となく思う私達は、何を得たいのでしょうか。
なにを欲しているのでしょうか?
テレビコマーシャルで、USJ(ユニバーサルスタジオジャパン)のコマーシャルは見たことありますか?
あのCMでは、最後に「”わぉ!”という小さい声でリアリティのある感嘆のささやき」みたいなのが必ず入っています。
実際は1秒にも満たない、文字にすると2文字の感嘆ですが、私は、恐らくあの音声を入れるのと入れないのでは、CMとしての宣伝効果が大きく違うのではないかと思います。
人がユニバーサルスタジオジャパンに行きたい!と本当に強く思う時は、決してハリーポッターのアトラクションに乗りたいとか、ジェットコースターに乗りたいとかではないです。
それらのアトラクションやイベントを通して、「わぉ!」って心から自然に漏れてしまうような経験を体験したいと思ったとき、本当にUSJに行こう!と決心します。
さらに言うと、感動という濃い、日常生活では味わいにくい気持ちを味わいたくてUSJに行きたい!と思うはずです。
これは何も、USJに行くという贅沢に限ったことだけではありません。
高級レストランでステーキを食べたいのも同じ、高級車に乗りたいのも究極的には同じで、「濃い気持ちを味わいたい」がために人は贅沢をしたい!と思うのです。
濃い気持ちを味わう=お金が必要とは限らない
そう理解すると、決して、お金を使って何かサービスを買ったり、物を買うことだけが贅沢ではないな、と私は思うようになりました。
資本主義社会の真っただ中で生きている私達は、「お金が、消費が全てを決める」と思い込みがちな傾向があるように思います。
でも実際、私は生まれたときからその資本主義社会の真っただ中で生きていて、毎日何を考えてしまうか、私の中で毎日心配したり、考えたり、心の中心を大きく占めているものは何か?よく考えてみると、
自身の家族のことであったり、私に関わる人達の気持ちや心であったり、そういった感情とか気持ちとか、人の中にある漠然として、ヤモヤしたものが大きく心の中心を占めていることに気づきました。
決して、お金や消費や物のことばかりついつい考えてしまうわけではなく、自然と周りの人のことを考えますよね?人間って。
どちらかというと、モヤモヤとそういったことを考えていて「ハッ!」と気が付いて、自身のお金や将来の経済状況のことを考えたりしませんんか?
私はそうです。
幸せと収入は比例しないと科学でも立証されていますが、その通り、私達の心をいつでも、いつまでも、大きく支配しているのは、人への気持ちです。
感謝であったり、気遣いであったり、心配であったり、様々なものに姿を変えた人の気持ちや心だと私は思うのです。
稀にお金のことばかり考えている人もいるでしょうが、果たして自分は幸せなのか?と突き詰めて考えてみてほしいと思います。
物やサービスで幸せが手に入るでしょうか?私は少し疑問に思います。
なぜなら、上述のように、お金を払って得た物やサービスの先にあるものが、人の幸せにとって本当に大切だと思うからです。
よって、もし贅沢をしたいと思っていて、それがお金で買えると思っている人は、これから経済が低迷していくであろう日本では、幸せや満たされた気持ちを味わいにくい、生きにくい時代になってしまうのではないかと懸念しています。
贅沢はお金がある人なら、お金で買えばよいし、お金がないなら、お金以外のもので濃い経験をして贅沢な気持ちに成ればよいと考え方を少し変えてみると、今後良いかもしれませんね。
まとめ
私が生活ギリギリの低収入時代、とっておきに贅沢な経験をしたことがあります。
私はバイクが趣味で、よく田舎にツーリングに一人で行っていました。
当時の私の家の近所には、すごく夜景の綺麗な山間部の道がありました。
舗装された山道をバイクで入っていくと、緑の木が両側からせり出していて、まるで緑のトンネルの中を走っているようです。
爽快この上ないその道を、風を感じながら走っていると、突然バッと崖が見え、そこから大阪を一望できます。
未熟な私にも家族ができ、子どもが生まれて、その子が3歳になったころ、そこに夜、なかなか寝付けないパジャマ姿の子どもと二人で車を走らせてドライブしました。
いつも走っているその道が、子供と二人で話をしながらドライブすると、また違った新鮮な景色に見えてきます。夜ということもありましたが。
夜景の綺麗なその場所に到着すると、近くにあった自動販売機で子供はジュースを、私はコーヒーを買いました。
パジャマのまま、子供は目を輝かせて「うわぁ・・」とつぶやいたきり、キラキラした大阪の夜景を眺めています。
私はその子供の横でコーヒーを飲みながら、子供の目に中に映っている大阪の夜景の光をそっと見ていました。
「いや~贅沢だなぁ」そう思わずにはいれない経験でした。
自分にこんな素直な子供がいて、幸せな家庭があって、子どもが寝付けないおかげで、こんな贅沢ができるなんて、私は幸せだなぁと心から思いました。
満たされた濃い気持ちを味わうという経験は、ジュース二人分の260円でも充分できますよ。