物語「神様の思春期 ”創生”」


今回はちょっと変わった話を・・人が生まれてくる意味についてお話します。少しクサイですが。




青春時代や思春期にみんな想い悩んだりしますよね、「自分はなんで生きてるのかな」って。

私はかなり自分的に納得できる答えを持っています。

 

以下は少しオカルトな話なので、覚悟して下さい・・(あ、すぐに画面を閉じない様に!せめて読んでからでお願いしますね。)

でもきっとみなさんの役に立つと思いますよ。損はさせません。

 

このお話は根拠や理論を求める人には少し向かない話かもしれません。

しかし、世の中にはそれが大切ではない場合もたくさんあります。

 

例えば小説なんかほとんど嘘ですよね。根拠も理論もない場合が多い。

でもみんなお金を出して買ってまでも読んだりする。

小説の趣は真実かどうか、根拠があるのかどうかというところにありません。

その話に心が動かされたかどうかです。

 

なので、これからお話することも、ひとつのストーリー・物語として読んで頂けると抵抗感なく読んで頂けるかと思います。

神様の思春期

元々、この地球が生まれる前に、神様がいました。

これは別に「神」って言葉を使わなくても、「これ以上ないくらい完全で絶対的に究極のもの」と言う定義であればどんな言葉でもかまいません。

 

少し宗教色を払拭するために、この究極の物体を「光の塊」と呼ぶことにしましょう。

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え?余計宗教っぽいですか?まぁ、あまり気にしないで下さい。

 

神っていうと余計な先入観を抱いてしまう方もいると思うので、イメージとしてはその方が伝わりやすいのではないのかと思います。

 

 

光の塊は、常に何においても満たされています。

いつでも最高に心地良い気分で、行きたいと思った瞬間にその場所に行けるし、欲しいと思った瞬間にそのモノが目の前に現れて手に入れることができます。

そんな素晴らしい世界に住んでいます。

 

 

光の塊は究極に完全なので、肉体、時間や空間の物理的な障害なんて一切関係ありません。

それに付随して存在する、あらゆる苦しみ、欠乏感、嫉妬、飢餓、痛み、病気、死への恐怖などのネガティブな要素を感じることは未来永劫ありません。

 

私の様に、歯が痛くて、数か月も歯医者に忙しい仕事の合間に通うなんて低俗で辛いことはあり得ない訳です。

 

で、そこでずーっと何億年も(私達の時間の感覚で言うとですが)私達が考えられないくらいに豊かに、幸せに生きています。

 

満たされている、どころか満たされている感覚そのものです。

なんの不安もない。ありえない。

 

しかし、ふとした時、光の塊は自分が「究極に完全ではない!」という事に気付いてしまいます。

 

 

 

 

究極に完全であるがゆえに不足しているもの、それは「不完全な満たされない経験」です。

 

よく言われることですが、闇が無ければ光の存在に気付けない。

 

自分は何者なのか理解するためには周囲との比較が必要です。

心理学でもアイデンティティの確立する時期は他者をはっきりと認識する思春期以降ということになっています。

 

 

光の塊が究極に完全になるためには、苦しいとか辛いとか、負の経験・体験、不完全な気持ちや状況を心から理解することが必要なのです。

 

光の塊にとって、このネガティブで不完全な負の経験をすることは簡単なことではありません。何をやっても望みが叶ってしまうし、不完全になり得ないからです。

 

 

そこで光の塊は「この世を作ること」を思い付きます。

 

不自由な肉体という殻の中に光の塊の一部のかけらを閉じ込めて、あらゆる物理的な障害をつくり、あらゆる負のモノ、この世の苦しみ、暴力、痛み、苦労や不満、怒り、嫉妬、抑えられない感情、不自由、そういったものを作り出しました。

 

それらが自然に発生するように、巧妙にシステムを作り上げました。

 

光の塊をあえて分散させて「かけら」にして点在させます。「比較・違い」から派生する苦しみである疎外感、劣等感、差別を生むためです。

できるだけ、考えられるだけ多くの負のものや不完全なものを一瞬で作り出しました。

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「やった!ここ(この世)であらゆる不完全な負の感情や苦しみを地獄の様に体験すれば、私は究極に完全な存在になれる!」

 

こうして、神さまの思春期におけるアイデンティティの確立の為にこの世が作られました。

それは、より光り輝くものに成長するためになくてはならないものです。

 

光の魂のかけら達は、色んな苦しみを経験するために、喜び勇んでこの世に生まれてきます。

 

しかし、光の塊の時の記憶はこの世に生を受ける瞬間に消されています。

完全体の時の記憶が残っているとあらゆることが予期できてしまい、苦しみが軽くなってしまうからです。学ぶ効果が落ちるのです。

それでは負の経験を心から体験することができない。

 

まっさらな何も知らない状態でこの世に生まれ、あらゆるこの世の苦しみを経験して、肉体から離れた時、また光の塊に吸収され、その経験は共有され、学びとして全体に蓄積されていきます。

 

そうやって少しづつ光の塊はより絶対的で究極的な完全体に近づいていく、そういう計画です。

光のかけらの課題

光の塊は究極に完全なので、この世にそのかけらを送り込むときに無計画には送り込みません。

それぞれ、課題を決めてこの世に生まれます。その方が効率が良いからです。

 

例えば、私が通り魔に突然命を奪われたとします。

そこから私の中の光の塊のかけらは何を学ぶのか?

 

それは「とてつもなく大きな許す心」かもしれません。

 

 

自ら肉体にハンデを持って生まれ、「心の自由」ということを学びに来ている者もいるでしょう。

上述のように人の命を奪うために生まれてきた者もいるかもしれません。

そういう人は被害者に「許す心」を教えるために生まれてきたのでしょうか。

 

家族に恵まれず、幼少期より辛い想いをしてきた人は、この世で「自分で家族を作って、家族の温かさを一から作り上げる」ことを学ぶために生まれてきたのかもしれません。

 

気が弱く、自己主張でができない、周りの人に振り回されてばかりいる人は「勇気」を知ることが課題かもしれません。

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この個別に持って生まれてくる「課題」は決してはっきり自覚することはできません。

そういうシステム・ルールになっています。cd5ace0fe497b2d6fe77581912ba7008_s

しかし、長い道のりに完全に迷ってしまわない様に、道しるべとなるヒントは与えられます。

 

課題を克服する経験をすると、あなたの心は「心地の良い温かい感じ」がします。

どことなく懐かしい感じがするかもしれません。

それは光の塊であった時にあなたが常に感じていた気持ちだからです。

逆に、例えば怒りや憎悪に我を忘れているあなたは、決して心地よい気持ちではないでしょう。

 

これは「何か足りない」というサインです。光の塊から離れた、という合図でもあります。

ここからもう少し何かを学ぶと、再び心地よい温かい心に戻ることができます。

 

あなたの心が心地よい温かい気持ちに包まれているとき、それは正解であり、「愛」という概念に近い感情や気持ちが含まれているはずです。

 

つまり、光のかけらはこの世の苦しみ、辛さを味わい尽くし、そこからそれぞれの課題である何かを学び、愛に辿り着く。

その過程を学ぶためにこの世に生まれてきているのです。

 

そのことに何となく気づき始めた人は、光の塊を「愛」と呼ぶようになります。

「愛に近づくことをすると満たされる。」

 

しかし、光の塊は愛そのもであるため、この世で自分の子供達ともいえる分身が苦しむのを快く思っておらず、胸を痛めています。

でも、この世で経験を積むことは絶対に必要なこと・・。

 

光の塊は悩んだ結果、自分の子供達が「相互扶助」、つまりお互いに助け合うことをすると心地が良くなり、一次的に苦しみから逃れられる、という特別なシステムを追加で作りました。

この世に点在する光のかけら達の苦しみが少しでも少なくなるように、誠意を持って尽力する「かけら」には、報酬として幸せや成功といった一時的ですが、光の塊の時に感じていた充分な満足が得られるようにしました。

全ての苦しみの元

それでは、愛の反対にある、最も愛から離れた状態とはどんな状態でしょうか?

それは「愛さないこと」や「怒り」・「憎悪」ではなく、「不安」です。

「不安から全ての苦しみが始まる。」

 

光の塊は、まずこの世を作る時に、不完全なものを徹底的に調べ上げました。

そして全ての不完全なものの中に、必ず「不安」があることを発見します。

 

もし、不安を感じるなら、それは恐怖にもなり、やがて差別が生まれ、暴力になり、戦争になる。

不安を感じた人は、怒り、憎悪に燃え、盗み、騙し、欺く・・

 

光の塊はこのことに気付き、この世の核として「不安」を作り上げました。

 

 

しかし、この世である程度の不安を持って生きることは大切です。

でないと課題を意識することは不可能だからです。

 

しかし、過剰に不安に囚われていると、この課題すら見えない状態になってしまいます。

そうなった最終形が、自分で自分を殺める「自殺」です。

課題を放棄してしまう。

 

 

それでは、適度に不安を感じるためにはどうしたら良いか?

過剰な不安を拭うためにはどうすれば良いのか?

 

そのためには、どんな人も、どんな光のかけらも、いずれ「愛に帰る」というシステムが完全に組み込まれていることを知ることです。

 

どんな道を通っても、心が弱いゆえにどんな悪いことをしても、どんなに辛い経験をして挫けそうになっても、いずれみんな一人残らず愛に帰るように、究極に完全な光の塊がシステムを組んでいます。

どんな人も仕事が終って自分の家に帰るように、元の光の塊に戻っていくのです。

 

これは究極に完全な光の塊が考えた完成された完璧なシステムです。

少しの狂いもあるはずがありません。

 

どこかの宗教で言われているこの言葉「信じる者は救われる」とは、こういう意味です。

 

なので、不安に囚われて、あまりにも辛い時にはそのことを思い出して下さい。

あなたは「いずれは救われる。いずれは必ず満たされる。」

それを信じようと信じまいと、あなたが生まれる前からすでに決まっていることです。

あなたがあらゆる神さまを否定し、罵ったとしてもそんなことは一切関係ありません。

あなたが帰るところはそこにしか、そこ以外にはない。

まとめ

いかがでしたか。

オカルトチックで胡散臭い話でしょう?

 

この話が面白いのは、分析心理学のユングの言う普遍的(集合的)無意識に通じるところです。

 

普遍的無意識とは、どの国でも、どんな人種でも、いつの時代でも、深層の部分に個人を越えて普遍的に共通する無意識があるとする説です。

真実や美しいもの、善なるものに感動する心は、どこの国でもどんな環境で育った人でも根源的には同じです。

元は一つの塊であった、ということであればこの説も納得できる気がします。

 

 

 

私がこの話を通して言いたかったことは、結局生きる意味なんてはっきり分かる訳ないんですよ。

いくら緻密にデータをとっても分かる訳ないし、いくらテクノロジーが進化したって無理でしょう。

 

なら、自分の都合の良いように解釈すれば良いと思います。

この「神様の思春期論」で生命を捉えると、少なくとも、辛いとき、苦しい時にもただ打ちのめされるだけでなく、何かを学ぼう、という意欲=「ただでは転ばない精神」が芽生えると思うんですよね。

 

結局いくら頑張ったって注意したって失敗して辛い想いしたり、苦しい想いをすることからは逃れられない。

ならば、そこから何を学んで次に活かすのか?そこを学ぶことに焦点を当てることが大切だと思います。

転ばないことが大切なことではない。ただでは転ばない精神が大切なんです。

 

もし、私のストーリーで何かしら感じるものがあったなら幸いです。

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