
医療介護保険内の事業下で働いていても恐らく給料は上がりません。むしろ下がっていく可能性が高いです。なぜなら、保険制度の元々の設計がおかしいからです。
介護保険法の失敗
2000年から介護保険法が施工され、要介護認定を受けた利用者が1割負担で介護保険の各種サービスを利用できるようになりました。
しかし、「この時点からすでに間違っている」と私は考えています。
介護保険法では、月収200万円もあるような企業の会長職の高齢者でも、年金暮らしの高齢者と同じサービスを、同じ1割負担の金額で受けられる、という制度です。(現在は負担額が増えていますが、スタート当時の話です。)
これって、すでにおかしくないですか?
政府は「公平の基準」を、その落とし所をこの時点で間違えたのだと思います。
「公平」ってすごく難しくて、安易に、”誰も彼も同じ条件で扱うこと”ではありませんよね。
介護保険下でいくらサービスの質を上げても給料は変わらない
介護保険の利用者目線で考えれば、「公平で素晴らしい制度だ」と感じる方も多いと思います。一方で、保険下で働く労働者側目線では、「不公平な制度」といえる側面もあります。
介護保険制度のサービスは基本的には時間単位で介護報酬が支払われます。40分でいくら、という感じです。
よっていくら一生懸命サービスの質を向上させたとことろで国から支払われる報酬額は変わりません。(若干の報酬の修正は”加算”という形で支払われますが、労働者の給料に直接反映するほど大きな額にはなりません。)
「質より量」でしか収益を上げることが出来ない仕組みになっています。収入を上げたければ、ひたすら労働時間を増やす以外、基本的には方法がありません。
今、政府主導の働き方改革で問題になっている、「労働における生産性向上」と真逆の方向に進むしかない土壌を政府が構築した、という摩訶不思議な制度が介護保険です。
(注:生産性向上とは、いかに少ない費用で大きな成果を出すか、ということなので、簡単に言うと”量を減らして質を上げること”が目標になります。)
労働者の給料が上がらなければサービスの質は上がらない
介護保険内では「全労働者 同一賃金」という方式が採用されているということになります。
ベテランで、どんなに優秀で実技に長け、ホスピタリティ溢れる介護職の人も、介護の仕事を始めて初日の右も左も分からない人も、全く同じ労働価値として対価が支払われます。
これはすごく「不公平」です。
頑張って研修会や勉強会に参加し続けても、全く給料に反映されず、事実上、ただ趣味で自己研鑽を続けているという状態になっていきます。
私の周りの医療介護職も、3〜5年位は奉仕の精神で熱心に自費を払って勉強会に参加しますが、それ以降は参加しなくなってしまう人もいます。(もちろん、本を読んだりして研鑽を続けている人も多いですが。)
なぜなら、いくら技術を高めても一向に給料には反映されない、ということに気付くからです。
こういった意見を述べると、「医療介護職はそういうものだ!対象者のために研鑽するのが当たり前だ。」という人もいると思います。それは、ここで議論するまでもなく、その通りで、間違いありません。
しかし、私が言いたいのはそんなことではありません。根本的に少し違います。
個人レベルで沢山給料を貰って贅沢したい、とか楽したい、とか言っているのではありません。
ぜひ、もっと長く、広い目で業界と日本全体を見渡して欲しいと思います。
社会保障費の負担が増えていくに従い、月15万円程度の手取り額になっていく可能性も高い。(実際介護職の一部は現在でもそれくらいでしょう。)そうなると、もう、結婚して家庭を持つ、という理想図を頭の中に描くことも出来なくなります。
結婚する人が少なくなっているのは、結婚適齢期の若者の給料が減っているから、というのは要因の一つとして大きいはずです。(日本の工業化前に設計された婚姻制度自体がもう時代に合わない、ということもありますが。)
研鑽を続けても、給料が増える見込みがないとなると、今後の日本の少子化問題にも多大に影響します。

これは日本全体レベルでの話ですが、少し範囲を狭くして、医療介護業界だけで考えてみても良い結果を産みません。
上述のように、給料が上がらなければ、自己研鑽しなくなる人が出てくることは充分想定できます。
医療介護職でありながら、研鑽を怠る。それは、その人が悪いと思いますか?
それだけで片付けてしまえれば、簡単です。
しかし、私はそうは思いません。
労働者の権利の平等を掲げる社会主義国家では、一生懸命働いても収入に差が出ないため、次第に手を抜くようになった、という歴史があります。
(↓この動画の32分くらいからその説明があります。)
これはもう「人間の性(サガ)」とも言うべきもので、対価がないのにひたすら研鑽、努力を続けることを強制する方が無理があり、おかしなことです。
一方で、アメリカや日本などの資本主義国家が比較的上手く行っている(問題もたくさんありますが)のは、「市場競争が存在するから」だと思っています。
「頑張れば頑張るほど報われる。手を抜けば追い越される。」という市場原理の土壌があるからこそ、個人は勉強・研鑽し、自らを高めようと努力を続けることができます。これは過去の人類の歴史が証明しています。
それを全く考慮しなかった(と思われる)介護保険制度は、制度設計の時点で実は無理があります。
長期的に成長していくには
医療介護業界がこれからも国の一大事業として発展していくためには、
- 労働者がたゆまぬ研鑽を続け、
- サービスの質を向上させ、
- 利用者に高品質のサービスを提供すること
が出来なければ大きな飛躍は望めないでしょう。
そして、そのためには、
- 労働者の給料にインセンティブを付ける
ということが必須です。
つまり、現状のように、労働者にとって給料が上がる仕組みがないと言うことは、長い目で見ると、「質の高いサービスが受けられなくなり、利用者の不利益に繋がる」のです。
今後の介護保険の見通し
上述のことを踏まえると、実は、介護保険制度は、初めから保険適応の対象者をかなり限定したものにしておけば良かったのではないでしょうか。
高所得者層には保険適応はなし。その代わり、高額ですごく質の高いサービスやリハビリが受けられる。選択できる。
脳卒中発症後の半年間は予後的にも特に重要な期間なので、その期間は高額の利用料を支払い、「脳卒中のスペシャリストのリハビリ職」に担当してもらう。これは高所得者層からすれば一概に悪い話ではありません。
高額の利用料を支払うのが難しい年金暮らしの高齢者には、介護保険が適応となり、1割負担でサービスが受けられる。その代わり、人を選ぶことができない。(現在の介護保険制度と同じです。)
こういった条件で介護保険制度がスタートしていれば、社会保障費の圧迫も現在より断然少なく、かつ市場の原理が働きます。医療介護業界に自然と競争が生まれます。
そうすると、医療介護職が研鑽を積み、スキルアップしていけば、自然と給料も増えやすくなる。結果、業界のサービス水準は高くなっていく。
介護業界の水準が上がれば、世界で活躍するグローバルな介護士が出てくるかもしれません。
政府は高所得高齢者のタンス預金を市場に流通させるためにNISAなど、アレやコレやと画策していますが、実際のところ、2000年の時点で介護保険でしっかりとお金を使ってもらえるように設計しておけば良かったのではないかと思います。
実際、介護保険は現在、高所得者は2割(2018年夏頃より3割)の自己負担額になってきており、今後、自己負担の割合もどんどん増加していくでしょう。
本来は、2000年の時点でこのデザイン・設計をしておいて、社会保障費に余裕があれば自己負担の割合を減らしてあげれば良かったのでは…と思わずにおれません。(そうすれば、みんな国に感謝します。逆に自己負担を上げていけば、心証は良くなりにくいですよね。)
つまり、介護分野も、最初はその他の市場のサービスと同じように、市場の原理に任せて競争させ、サービスの質を高める。そこで金銭的な問題でサービスが受けられない人を救う制度として介護保険を導入する。
今、政府が進めている順序と逆に進んでいけば良かったのではないかと思うのです。
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まとめ
2000年に始まった介護保険制度は実は、初めから少しデザインがおかしかった、と私は思っています。今後、恐らく、自己負担額の割合が増え、市場の原理が働くように徐々に設計し直されていくと思います。
本当は初めからこれをやっておけば、今のように社会保障費の急増が問題にはならなかったのではないでしょうか。
そうは言っても、もう後戻りはできません。
今後、私たち医療介護職は、利用者のために自己研鑽を続けながら、保険外で自身の給料アップを図っていくことが必須になってくるでしょう。
自費でリハビリの治療院を開設したり、リハビリの知識を活かしてヘルスケア分野で起業するのも良いと思いますが、多くの労働者、つまりは、起業ほどのリスクを取りたくない人にとっては、こちらの記事が参考になるかと思います。
保険外で一個人がどのように現在起きている波を泳いでいけば良いか書いています。よければ読んでみて下さい。