
「リハビリ2.0」の基本的な概念にも通じる、「受動意識仮説」について説明しています。
”意識して”行うことは何でも続かないし、やりたくない
僕はブログを数年間書き続けています。セラピストのブロガーの中ではPVも収益も結構ある方なので、よくブログ運営についてご相談を頂きます。
その関わりの中でよくあるのが、「頑張ります!」と言って数ヶ月したらブログ記事の更新が滞っていること。その度に「人間、やはりそんなもんだよなぁ」と私は思うわけです。
一方、ネットビジネスでも、ダイエット商品のアフィリエイトをする分野は昔から激戦区です。
それくらい、いつでも人はダイエット商品をアレヤコレヤと求めています。これはなぜかというと、色んな要因があるとは思いますが、一番は「ダイエットを継続することができない人が大多数だから」だと思うのです。
- 英語の勉強するぞ!と意気込むけど続かない。
- 毎日ジョギングするぞ!と決意するけど続かない。
- 資格とるぞ!と思って勉強する時間を捻出するが、数ヶ月にはすっかり普通の生活に戻っている
ブログだって例外ではありません。私はただ、「そんなもんだよね」って思います。これはセラピストとして患者さんと関わる臨床でも同じですよね。
- 「この自主トレーニングだけは続けて下さいね」
とお伝えし、果たしてどれだけの方が続けてくれるでしょうか。
もちろん、これは患者さんが悪いと言っているのではありません。(ブログ辞めちゃう人も、その人が悪いなんて思ったことないです。組織でよくあるような”属人的な発想”は生産性がないので嫌いです。)
「人間、そんなもん」なんですね。良いも悪いもありません。
あるプロブロガーは、「ブログを1年書き続けて1億円入るってことが分かっていれば、みんな続けるに決まっている」というようなことを言っていましたが、人間と毎日深く接する仕事に就く私の見解としては、きっと「それでも継続できないのが普通の人間」だと思いますね。
ダイエットは運動を続ければ確実に痩せることは分かっているのにできないですもんね。明らかにメリットがあってもできないし、続けられない。それが普通です。
それは「そいつがバカだからだ」と鼻息荒く言う人もいると思いますが、恐らく普通の8割の人はそうであり、その人たちをバカと言うのなら人類全体をバカと言っているようなもの。そんなことはあり得ません。人類ほど知能の発達した生物は地球上にいませんから。
私には、継続できない理由には、金銭的なメリットとか利益、理性を超えた何かがあるとしか思えないのです。
「受動意識仮説」
そこで、いつものように、自分で考えた結果を検証すべく、気の向くまま気になる単語を検索窓に入力してネットサーフィンをしていると、「受動意識」という仮説を発見しました。これが超面白いのです。
仮説を提唱しているのは、慶應義塾大学大学院システムデザイン・マネジメント研究科の前野隆司先生です。
(専門職が好きそうなのでエビデンスというか、それっぽい文献も貼っておきます(笑)。ロボットの心の作り方)
前野先生は、
- ヒューマンインタフェースのデザイン
- ロボットのデザイン
- 教育のデザイン
- 地域社会のデザイン
- ビジネスのデザイン
- 価値のデザイン
- 幸福な人生のデザイン
- 平和な世界のデザイン
様々なシステムデザイン・マネジメントの研究を行なっておられます。この仮説によると、意識は「司令塔」ではなく、「観察者」である、とのこと。
その論拠として、カリフォルニア大学サンフランシスコ校のリベット教授が行った実験(1983年の論文で発表)が挙げられています。
この実験では、脳の中で「指を動かせ」という信号が指の筋肉に向けて発せられた時刻と、「心」が「指を動かそうと思った」時刻を比べたところ、脳の中で「指を動かせ」信号が発せられた時刻の方が「0.2秒」早かったそうです。
つまり、脳の中で「指を動かせ」信号が発せられてから「0.2秒」たった後で「心」が、「指を動かそうと思った」ということになります。
意識は、体の動きをモニターしているだけで、それを私たちは「自分でそう思った」と勘違いしているのだ、という仮説です。
なぜそんな仕組みにする必要があったかというと、人がエピソード記憶をするために、「私がやったんだ」と思い込む必要があったから、とのこと。(私という”主体”を作らなければエピソードが成り立たないから記憶ができない。)
上の動画では、意識がある人間と対照的な存在として、昆虫(カブトムシ)の話が出てきます。カブトムシは光源があればそっちに飛ぶし、餌があったら食べるという無意識下のプログラミングによる世界に生きており、意識は存在しないはず、とのこと。
プログラミングで動くって、すごくロボットに近い感じがしますね。
受動意識仮説によると、人も基本的にこのカブトムシと同じということです。そこにプラスして”意識”というモニタリングシステムが機能しているだけ。
自由意志は存在しない、という衝撃的な仮説です。”我思う、ゆえに我あり”を根底から覆すことになります。
実は、人は効率よく記憶するために、意識を自ら作り出し、あたかも自分がやっている、考えて行動しているかのように錯覚しているだけ、なのかもしれないということです。
人工知能の構築は、これまで、「司令塔」作りを目指して、失敗してきました。「受動意識仮説」に基づく人工知能の構築は、様々な部分機能を果たす要素の集まりを作り、その個々の機能要素が出力してくるアウトプットをただ単に観測している観測者を作ればいいということになります。
う〜ん、非常に面白い仮説です。
仏教や心理学系にもかなり似た考えがある
仏教に出てくる、”色即是空、空即是色”の”色”とは仏教用語でいうところの”存在する実体”のことです。
”空”は”ない”こと。つまり、”実体がないことが実体である”という主張は、受動意識仮説とほとんど同じことを言っています。
他にも似たような教えはたくさんあって、”五蘊非我(ごうんひが)”という考え方が仏教にはあります。意味は、
五蘊すなわち身体から感覚作用、判断作用までの心身は、“非我”つまり我に非ず
これも受動意識説と重なるものがありますし、同じく仏教の”縁起”も近いものがあります。
縁起とは、他との関係が縁となって生起すること。 自己や仏を含む一切の存在は縁起によって成立しており,したがってそれ自身の本性,本質または実体といったものは存在せず,空である,と説かれる。
他には、分析心理学のユング、精神分析学のフロイトの唱える”無意識と意識”にも非常に関係しているように思います。
一方で、少し怪しい(とされる)分野では、引き寄せの法則やスピリチュアルともかなり共通しています。
「無意識を活用して大成功する方法!」とかの自己啓発書でもよく言われていることで、意識をコントロールするのではなく、無意識をコントロールしようという話があります。
ネットで無意識について検索して色々調べてみると、現状ではどう見ても、怪しい記事が沢山出てきます。(笑)
深く知る必要はなさそうなので、一通り目を通して”ソッ閉じ”(そっとプラウザを閉じる)しておきました。
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間違いなく科学はどんどんオカルト化していく
今、飛ぶ鳥を落とす勢いの落合陽一さんも”テクノロジー”のことを”魔法”と言っていたりしますし、実際、科学を突き詰めていくと、限りなくオカルトくさくなっていくと思います。
心を持ったロボットを作るためには人間の仕組みをもっと深く研究していかなければならないでしょうし、その過程でこういった人間の、
- 意識
- 宗教
などの心の深い分野をどんどん開拓して行かなければならないでしょう。
私の肌感でも、身の回りのいわゆる成功者=人生うまく行っている人と話すと、必ず根拠のない自信を持っています。なぜそんなに自信が溢れているのか聞いてみても、ほぼ100%自分ではよく分かっていないのです。
根拠は全く論理的に説明できないけど「自分はなんだか結構いける気がする!」と思っている人が本当に多い。(僕もどちらかというとそのクチです。笑)彼らには、いわゆる”マインドセット”的なものは確実に存在します。
そして、実際、僕がブログを始めた時とかもそうで、「なんだかいける気がする」と思って続けてきたから、副業レベルにも関わらず、本も出版できたと思うし、色んなお仕事を頂けるようになり、PVも集まってブログからの収益もそこそこ得られるようになったと思っています。
これはつまり、意識していなかったからこそ続けられたということ。つまりは、だた楽しかったし、書いていて充実感があったから、なんですよね。そこになんだかんだと後付けで理屈を付けているだけ、のような気がしてなりません。
いわば、「何か意識的なもの以外のプログラミング通りにやってきたから」とも言える感覚が確かにあるのです。「続けよう」と意識すればするほど苦しくなって続けられなかったかも知れないと思います。
リハビリでの自主トレだって、予防分野の健康維持だって、恐らく意識的に行うように世間に啓蒙しても普及しないでしょう。これ、明らかにもう分かりますよね?
今までの発想の延長線上に答えはないのです。
リハビリ2.0プロジェクトでは、アフォーダンス的な概念を中心に、無理なく続けられる運動や楽しいリハビリを子供の遊びや感覚を通して表現していく予定ですが、この受動意識仮説との出会いは大変有意義な示唆を与えてくれました。
やはり、要点は「何となくやってしまうこと」にあるということが明確になりました。意識ではなく、無意識に鍵があります。あたかもカブトムシが光源に向かうかのごとく、です。
人が心から動けるリハビリを提供するには、決して意識で押さえつけるようなものではなく、論理で説き伏せるようなものではないということ。
コミュニケーション学や心理学の分野では当たり前のように無意識の活用が論理に組み込まれて説かれています。(ミラーリングなどなど)
意識ではなく、未だに謎の多い無意識の分野の科学がもっと進歩すれば、リハビリ分野も大きく前進していくのではないか、と思っています。
そのためには、視野狭窄的にならず、一見オカルトくさいものでも、とりあえず受け入れてみる柔軟性が今後は特に大切なように思います。
まとめ
現在オカルトと呼ばれるものも、こうやって科学で徐々に解明されていくと、それはいつしか”科学”と呼ばれエビデンスが蓄積されていくでしょう。これは今までの世界の歴史を見れば説明するまでもなく明らかな話です。(地動説などなど)。
科学って本来そういうものです。
柔軟性に乏しい人は現在のエビデンスや統計、数字など、一見理解しやすい、受け入れやすいものに囚われがちですが、もちろん、そんなもので説明できるのは世界のごくごく一部分だけ。
上述の、”根拠のない自信”を持っていることが成功するためにどれほど大切かは、みんな言われなくても何となく理解しているものです。これはエビデンスも根拠も必要ありませんよね。
明治維新以降の工業化の波とともに普及した西洋的な価値観で物事を捉えると、
- 善か悪か
- 正しいか間違っているか
- 白か黒か
- 勝っているか負けているか
という二元論的な視点になりがちですが、それも一つの幻想であり、思い込みでしかありません。これって、それまでの日本の歴史を見ると、すごく変態的で異常、非常識なことです。現代の常識は意外と非常識です。
※詳しくは”ルールを守ると失敗する”社会の到来
正しい、間違っているという二元論的な意見はまず正しかった試しがない
患者が悪い、セラピストが悪い、経営者が悪い、従業員が悪い
二元論で話している時点で必ずどこか間違っているし、一向に真実には辿り着けない
ということを、少しだけでも自分で考えることができる人は当たり前に認知している
— 西野 英行 (@PT50139040) February 12, 2018
今一度、今生きている周りの景色を見てると、現実の世界は全て、レイヤー(層)で構成されています。どこまでも”淡い色”が重なり合って形成されているのが私たちが住む現実の世界。
それを無理に、人間が理解しやすい形に変形させたものが、”数字の世界”であり、”白黒はっきりさせた二元論の世界”です。
複雑怪奇な現実世界から目を逸らし、「空想の世界」に入り浸ることを辞めた時、きっとリハビリは、本当の現実と初めて向き合うことができるのではないかと思うのです。
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