
主体的に生きることは、人が幸せに生きるための必須の条件だと思います。そこで、どうやったら主体的に生きることができるのか考えてみました。
他人に言及するくらいなら、まず自分の理想を追い求めよう。まず自分がちゃんとしよう。自分の理想に向けて作戦を立ててコツコツ努力しよう。まず自分が成長して力を付けよう。力もないのに他人を助けるなんて無謀。これは自己中ではなく、他人のための自己中。つまり主体的に生きるということ。
— 未来のPT (@PT50139040) July 10, 2017
”自己中”との違い
主体的と近いニュアンスの言葉で、”ジコチュウ”つまり自己中心的という言葉もありますが、こちらは他者を本当に考えていない、眼中にすらない、というニュアンスがあります。視野狭窄的なイメージです。周りが全く見えない感じ。
一方で、主体的というのは、もっと視野が広く、周りの環境や人の気持ちも考慮した上であえて自分で選んでいく、という強い意志のようなものが感じられる言葉です。
人生は実は、選択肢が無限にあると思います。
私は2年前と比較して収入がもうすぐ3倍くらいになりそうですが、本業は普通の平理学療法士で、2年前とやっていることはほとんど変わりがありません。
2年前までは、理学療法士の平均年収が400万程度なんで、凡人の私はきっと生涯そんなもんだろうな、と思っていたのですが、たった2年でここまで変えることができました。
周りの環境は一切変わっていないのに、です。よって、なぜ、こんなに自分の周りが変わったのか考えてみると、やっぱり、「自分が変わった」からなんですよね。
自分で努力したり、自分で考えることがめんどくさい人は、すぐに他人に責任を転嫁します。「あいつのせいで」自分がうまくいかない、と思っている人が多いのです。
あいつ、と書きましたが、このあいつには、「自分以外の全ての物事」のことを差します。
周りの環境が悪いとか、上司に恵まれない、時間がない・時期が悪いとか、親の教育が悪いから出来が悪い自分になった、とかも含まれます。
なにかしら自分以外のもののせいにして自分が成長できない、と思っていたりするのです。しかし、実は周りの環境はそれほど大きな影響はありません。
正確には多少は影響がありますが、それでも微々たるものです。基本はやっぱり自分が何を考え、どう行動するかです。
主体的に生きれない人は視野が狭窄している
主体的に生きれない人は、恐らく何かしら強い固定概念が頭の中にあります。
- 「まっとうな社会人は・・・男は、女は・・・」
- 「成人男性は、結婚して家族を持って、毎日一生懸命辛い仕事をこなして働いて・・」
とかいうイメージが頭にこびりついているのではないでしょうか。
しかも、そのことに自分で気付いていない。自分で考えだしたオリジナルの答えだと思い込んでいる場合が多いのです。
でも、これって、本当は全然オリジナルではなく、どこかの他者が考えた幻想であることがほとんどです。実体のない幻想を追い求めても、本物を見ることもできないし、どこにもたどり着けません。大海原で蜃気楼を目指して船を漕いでいるのに等しいのです。
私たちのリハビリ分野でも幻想を追い続ける人が溢れています。
例えば、障害受容の過程を勉強して、それを無理やり患者さんに当てはめる。
これは幻想に操作されている状態で、半分意識が寝ている状態です。頭は覚醒していますが、心は眠っています。あまりにも感性が欠如しています。
障害を受容する過程は、今、目の前にいる患者さんの中にしかリアルなものはありません。どこかの識者が唱えた理論や学説なんてものはあくまで一般的な傾向であり、リアルなものではありません。それが目の前にいるリアルの患者さんに通用すると思っているのが、そもそもイージーに考え過ぎです。
現実はそんなに単純なものではありません。
様々な因子が複雑に絡み合い、心理や身体的特性、その人の人生を形成しています。いくら専門知識を持った他人がパッとそこに登場しても、簡単にその状況や心理を理解できるはずがありません。
人間をナメ過ぎだと私は思います。
幻想に逃げないで、ちゃんと現実と向き合うことが大前提として大切なことでしょう。なぜ、幻想を現実だと思い込み、そこに逃げてしまうのか。これは視野が狭窄しているからです。
患者さんの障害受容の過程でいえば、「自分が専門家だ」と思っているから患者さんの訴えや細かな動作や心理・表情の変化に気付けない。視野に入らない。それらはさして重要なものだと思っていなかったりするのです。
むしろ、最も重要な部分は現実に起きている患者さんの状態の変化、それだけなのに、です。
患者さんがどんなところで生まれ、どんな両親がいて、どんな兄弟がいて、どんな風に人生を考え、どんな風に生きようと思って生きてきたのか、そして、これからどうしていきたいのか、そこにしか答えはありません。
そしてそれは絶対に全てを把握することはできません。専門家だからとか関係ありません。机上の勉強だけで分かるものでありません。
しかし、今目の前の患者さんが自分の言動にどういった反応を示すのか、それはその人の人生が集約された”答えの元となる反応”です。
だから、そこを刮目して観察しないといけません。
専門知識なんて、あくまで表の薄っぺらい情報・知識であり、考えるための核となる情報は今目の前の患者さんが提示してくれているのです。
学生の頃、「1192作ろう鎌倉幕府」なんて覚えて「こんなこと覚えてなんの意味があるんだろう?」と思ったことはありませんか??
その通りです。この知識になんの意味もありません。
しかし、この知識も、歴史全体を把握し、鎌倉幕府の存在とその特性、その成立年を知っていることで、初めて流れとして意味を持つようになります。
歴史にはある一定のパターンがあるので、人間とはどういったものか、文化とは何か、社会とは何か、そういったことを考察するのに非常に大切なヒントになります。
歴史という全体を知るためには、「1192作ろう鎌倉幕府」という「部分」の情報が必要なのです。
この例のように、一部の情報を持っているだけではほとんど意味がありません。ただ「勉強したな」という自己満足があるだけです。
全体を知り、その中でその一部の情報がどういった役割をするのかをしっかり考えないと、決して現実世界で活きた情報にならないということです。
これを人生に当てはめてみると、まず、視野を広げるためには、すでにみんな固定概念を持っていることにまず気付かなければなりません。でないと視野があまりにも狭く、全体を把握することができません。
そしてそれを意識的に捨てなければなりません。
根拠のない自信を持つ方法
人に言われて素直に意見を聞くのと同時に、それを徹底的に疑うことも同じくらい重要です。
本当にそうなのか?その人にとってはベストな方法だとしても、自分にそれが本当に適しているのか自分の頭と感性で考えなければなりません。
一度、あなたが持っているもの全てを疑うのです。今までの人生であなたが苦労して築いてきたもの全てです。
- 考え方
- 趣味・嗜好
- 生理的な反応(好き嫌い)
- 自分へのイメージ
- 他者の評価
など、すべてを疑います。一度「全て正しくない」と完全に否定して、本当にそうなのか疑いましょう。
自分を心から信じる人は、全員漏れなく根拠のない自信を持っています。
そして、これは社会的に成功するためになくてはならないものです。なぜなら、これがないと粘り強く頑張ることなどできないからです。自分に根拠のない自信がない人は、何事も途中で諦めてしまうのです。
自分を信じることができる人は、すべてこの過程を通ってきています。
徹底的に自分のすべてを否定し、徹底的に自分のすべてを疑り尽くした人は、完全に”自己点検”が済んでいます。だから、”無条件で根拠なく”自分を丸ごと信用することができます。
自分を構成する全てのパーツに自信を持っているのです。
- 親から教えて貰ったこと
- 尊敬する人から教えてもらたこと
- 社会的に正しいとされていること
- 自分の夢や理想
これら全てを一度捨てて、全てを疑って下さい。言うまでもありませんが、感謝することと、まるっきり盲信することは全く別の問題です。感謝をしながらその人を疑うこともできます。
疑いと自己の完全否定の中に初めて真実が見えてきます。むしろ、そこにしか真実はないと思います。
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主体的に生きることで楽しく、幸せに生きられる
人生はいつでも暗がりの中を彷徨っているかのごとく、手探りで先が見えません。これはいくら凄い偉人でも誰でも同じです。
でも、”自己点検”が済んでいる人は、その中でも、自分だけは、自分のことだけはよくわかっています。暗闇の中でも強烈な光を自分に見出すことができます。
自分の目と耳、感覚器を通して外界を知るしか方法がないのです。そして、同じ裸婦の絵画を見ていてもいやらしいと思う人もいるし、美しいと思う人もいます。
ならば、自分を深く知れば、世界を知ることができるということになります。
だって、他者から見た絵画を他者の目と脳を通して自分が認識することはできないのですから。他人のことはとりあえずそっとしておきましょう。
自分のことが分からないで人生が不安な人ほど、他人に光を求め(善い行いを求め)、他人のことにうるさく口出しします。
それは、根源的には”自分の思うようになって欲しい”という心理があるからです。つまり、他人をコントロールしようとすることで、自分が暗闇の人生で一時的な安心感を得たいだけのことです。
でも、結局自分のことを深く知ろうとしない人は、いつまで経っても他人にそうやって光るように強要し続けなければなりません。結果、押しつけがましく、人に疎まれ、孤独になっていきます。
それよりも、自分が光れば良いのです。自分が常に光源であれば、他人の明かりを頼りにする必要ありません。光を強要しなくても歩いていけます。
本来、自分の人生は自分で道を照らして歩いていくものです。
他人はあくまでそれを手助けしてくれることもある、という程度であり、手助けしてくれないのが普通です。だから、人は何か人に手助けしてもらった時に心から感謝できるのです。
心から日々感謝して生きることができる人は、主体的に生きる人です。
他人に何かを強要し、否定するのではなく、他人に感謝し、主体的に生きる覚悟を持ちましょう。これはただただ、あなたが幸せな人生を送るために必要なことです。
初めは、他人はどうでも良いのです。ただ、自分のために、主体的に生きましょう。
主体的に生きるようになると、自然と他人に感謝の気持ちが生まれ、良い関係性が築けるようになります。
そして、人は、人との関係性の中にしか本当の幸せを感じることができないのです。