地域保健福祉は「ないものだらけ」。地域包括ケアを構築するために重要な価値観の転換とは?

地域社会保険福祉


私は理学療法士になって6年になります。その経験の中でずっと、未だに忘れられない経験があります。

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決して綺麗ではないが、想いのこもった暖かいバラの絵

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私が臨床に出て初めて担当した患者さんの話です。

今でも名前をフルネームで書けますが、その方を私が担当し、退院間直に私にくれたひとつの絵があります。

苦労しながら病気と闘いつつ、入院中に私に内緒で一生懸命書いてくれた「バラの絵」です。

昔趣味で油絵を描いていたそうです。「何にもあげられないけど・・」って言って額に入れてそっと渡してくれました。

 

今でも大切に私の部屋に飾ってあります。

動かしにくい手を使って書いているので、決して世間で言う「綺麗な絵」ではありません。でも、独特の味があるし、何とも言えない暖かい雰囲気があります。本当に素晴らしい作品です。

 

人が一生懸命相手のことを想って作ったものは、お金以上の価値がある大変貴重なものです。実際に私は涙が出る程嬉しかった。

プレゼントに金銭の多寡は重要でないことは皆さん経験的にご存じだと思います。気持ちや想いがこもったプレゼントというのは、絶対にお金で換算するような類の価値を持つものではありません。比較などできない、唯一無二の尊いものです。

このことを頭の片隅に置いて以下読み進めて頂ければ、と思います。

訪問リハビリで見えてくる「地域の課題」

少し話は変わって、私は従事する訪問リハビリで、自身の無力感を痛感する出来事が日常茶飯事です。

回復期の病院で働いていた頃は、量に任せたリハビリが出来たし、それに合わせてそれなりの結果を出すことが出来ました。

一方で、回復期の病院は比較的機能回復に焦点を当ててリハビリに取り組めるため、結果が分かりやすいところがあると思います。(もちろん機能回復だけ見てればよい、っていうわけではないのですが。)

 

訪問リハビリでは少し様子が違います。例え、機能回復に焦点を当てて、充分に効果を出しても、その人の生活で歩く機会が無かったり、機能維持のための意欲がない方は、またすぐに元に戻ってしまうことが目に見えるように分かります。リハビリをする前からもうある程度分かってしまうのです。

もちろんそういった方に、どうやったら意欲的に残存機能を維持するための活動を行ってもらえるだろうかとずっと考え、他職種に相談したりするのですが、結論が出ない。結局「本人の意思だ」という結論になってしまうことが多いです。

 

私達はリハビリを通して「治療」と言う言葉を使い、実際にその方の活動範囲を一時的に広げることはできたりしますが、それを維持させるシステムがかなり限られている気がしてなりません。「本当の治療」と言えるのだろうか?、と思えてしまうことが多々あります。

診療報酬には限りがあり、その度に介入することは今後明らかに叶わなくなってくるでしょう。

「自主トレの指導」ももちろん行いますが、それ自体行える人は少ないし、実際に行えているとしても、自主トレはあくまで機能維持がメインであり、生活の質の向上に間接的には関わっているものの、直接的なアプローチには思えません。

 

そうなると、より治療効果を維持させるためのシステムが必要になってきます。私達の力だけでこんなに大きな問題を解決できるとは到底思えません。

地域の保健福祉は「ないものだらけ」

ビジネス関連の書籍を読むと、「日本はほとんどのものが揃っている。そのため、必要性に応じて生まれてくる革新的なアイデア(イノベーション)が生まれにくい」と書かれていたりしますが、日本の地域保健福祉業界では実際、「ないものだらけ」だと感じます。

 

一人で孤独に暮らしている高齢者。生きる目的も、その日にしなければならないことも特にない。義務も責任も、何にもない。その土台となる意欲もない。湧いてこない、湧いてくるような体験がない。お金を払ってまで欲しいものも特に無い。

ある高齢者の方は「お迎えが来るのを、”テレビのおもり”をしながら待っています。」と言っていました。

私の祖母も「時代劇の様にサッと、やられたーって言って死ねたらどれだけ良いか。」と半分冗談で良く言います。

みんなこんなことを冗談半分で言ったりしますが、実際、真意はかなり「寂しい、悲しいこと」だと私は胸を痛めます。

 

外からちょっと眺めると、介護保険や公的補助のシステムは整備されており、整っている様に見えますが、実際は「充実感や意欲といった人生の生きがいの面」で、とてもシステムが整っているとは言えない状況にあります。

身体と心(脳)は切り離して考えることができない

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身体の問題と心(脳)の問題は切っても切り離せない関係にあります。

理学療法でも一昔前には、身体だけが切り離して研究され、筋力や関節可動域などの運動器の問題に焦点が置かれがちだったのが、最近では認知運動療法や運動学習、ニューロリハビリテーションなど、精神や脳の働きと共同させて全身の運動や動作を捉える傾向が強くなってきています。

 

見方を変えて身体機能面でも、”予備動作”と言われるものが必ず存在し、例として肩関節屈曲運動をする前に、腹横筋など体幹のインナーが収縮して外界に対して働き替える様な動作が初めて発現されます。

これを少し強引に人間の生活に当てはめると、精神的な意欲や情動、それがあって初めて外界に働き掛けるような動作や生活活動が引き出されます。

 

トイレに行くのだって、”尿意”を感じてから動作がスタートします。そこから始めて機能面・動作面の評価や私達が言う治療があるのであって、趣味や生きがいを作る活動をするのだって同じです。

何かを感じて情動がなければ人は絶対に動かないし、動く意味がありません。意味を感じなければ意欲も湧きません。

活動を遂行するための身体機能があろうとなかろうと、その状況ではそれは大した問題ではないのです。

 

感じること、さらにはそれを感じるための「体験」をすること、それがこの問題を解決に導く一つのヒントだと思います。

地域包括ケアシステムの「互助」の真意

当ブログでは今、様々な方と対談をして、それを記事にするという「ブログ対談企画」をやっています。

これをやってみて、強く感じることは、「人は、人と関わりの中で始めて情動が生まれる」ということです。

 

動く意欲が湧かない高齢者に、「歩かないと寝たきりになるよ」と言っても、動くようになる人は本当に少数です。

それよりも、その人がある人に本当に必要とされていて「駆けつけてあげなければ、あの人が困る!」というような状況や環境があれば、(それは”責任”あるいは”義務”と非常に近いですが)動く可能性は断然高くなるでしょう。

 

人は、自分の為に頑張れることはたかが知れています。他人のためだからこそ頑張れるということは多いです。

私もこのブログを続けるのに、ただの副収入目当てならもうとっくに記事の更新を辞めています。しんどいですから。今頃ブログなんて辞めて、きっとバイトでもしています。

でも、その先にある読者の方々のために少しでも役立てば、という想いがあるからこそ続けられています。

 

人の活動のモチベーションや生活の先には、必ず他者が存在します。

妻が家庭で料理に手間暇かけて、美味しく作ろうと努力するのは、「おいしい!」と言って喜んでくれる家族がいるからでしょう。

夫が一生懸命仕事を頑張るのは、それで喜ぶお客さんや同僚、組織、ひいては、家族、自分の親や親せきの存在があるからではないでしょうか。

私はニートが悪いとは別に思っていませんが、ニートが世間で良く思われないのは、極論では「自分しか眼中にない」人が多いからではないかと思っています。

そういった人は、「別に自分は生きて行けるんだから嫌々仕事なんてしなくて良い」という発想になっても不思議ではありません。仕事をする、しないの問題ではなく、自分本位すぎることに違和感を感じる人が多いのではないでしょうか。

自分しか眼中にない人は、例え仕事で頑張ってもたかが知れているし、嫌になったら仕事をすぐに辞めてしまうでしょう。それでは意欲も湧かないし、やる気なんて無くて当然です。無理やり頑張っても鬱になったり、身体を壊したり、何かしらの弊害が出てくるでしょう。

 

仕事や家事に限らず、その他の人間が行う動作や活動全て、何でも、一人ならそんなに頑張れないのではないか、と思うのです。

一人なら、スーパーで特売のコロッケでも買って食べれば、それで食事は済みます。

「おいしさ」という人間にとって非常に大事な感覚・経験を置き去りにしても、別に死ぬわけではありません。

 

現在の地域ではこの後者のような社会保健福祉のシステム、つまりは「スーパーで特売のコロッケを買って一人で流し込むように食べる生活」のようなシステム・体制は充実していると思いますが、家族に「美味しい!」と言って他者に喜んでもらうための努力をしたくなるようなシステムは「全くない」と言っても良いように思います。

高齢者が高齢者を支える社会を作るには?

ではどうすれば良いのか?

この問題を解決するのは非常に困難なことが簡単に想像できます。

 

行政に全てを解決すように望むのはもう難しいでしょう。これ以上の財源を確保できるなんてとても思えません。どこまで求めるのか?という話です。求めすぎです。

では、一方で社会的に力のある企業にこの問題を解決するように働きかけると良いのでしょうか?

それも少し無理がります。

 

この資本主義社会が成熟した社会で、お金になりそうなことはもうたいがい目を付けられていますが、ソーシャルビジネス=社会問題を解決するビジネスは放置されています。

だからこそ、この問題が浮上してきているのです。

 

なぜか?

端的に言ってしまうと、「ビジネスとして手を出しにくい分野だから」ではないでしょうか。

ボランティアの概念が根付く地域で、お金を取って堂々とビジネスをするのはどうしてもウケが悪いでしょう。

「あなたのおうちに定期的に訪問して、一緒に趣味活動を行います!」っていうサービスがあったとしても、それでお金を払うのはバカげている、と思われても無理はありません。

メリットも分かりにくいし、「お金取るなんてまぁ、いやらしい・・それなら友達に頼むわ。ほっといて頂戴!」と思うのが普通です。

 

結局は考えていくと、地域で市民の活動を促していくには、お金を生みにくいことが想像できます。

お金を生むサービスが充実するのは、恐らく、先程の「特売のコロッケを流し込むように食べる生活」のシステムまで、です。

それも現在では公的補助を受けて何とか成り立っているのが本当のところでしょう。

元々社会福祉の分野はお金やビジネスと相性が良くない。それを無理やり公費の力を借りて事業化しているのが、現在の介護業界ではないでしょうか。

現在は転換期「資本主義から評価経済へ」

それではどうしていくのか?もう手はないのか?

 

ここでキーワードになってくるのが、「評価経済社会」です。敢えて一言で言ってしまうと、お金の価値に頼りすぎない社会です。

参考)評価経済社会とは?

 

そもそも社会が変化してきている背景には、人々の価値観が多様化してきていることが根底にあると思います。

昔は結婚しないなんて、とか働かないなんて、と言われることが多かったように思うのですが、今は情報技術の発達によって、結婚しない生き方や働かない生き方に共感を覚える人も増えています。

昔はよくわからない、知っているモデルケースが少ないが故に批判されることが闇雲に多かったのではないかと推測しています。知らないこと、分からないことに対して人は不安を覚えるものです。もちろん他にも要素はたくさんありますが。

それに伴って、お金をあまり稼いでいなくても楽しそうに生活しているというモデルケースも散見されるようになります。

代表的な例では、地方へ移住して、自給自足でゆったりと生活する若者です。

資本主義社会の基本的な考え方では「お金を稼がないと、惨めで辛い想いをすることになる。食べていけない。」という漠然とした「暗黙の恐怖のルール」が存在すると思われていたのですが、そうでもない、そうとも限らないモデルケースが散見され始めています。

つまり、別に必死でお金のために働かなくても生きていける、いやむしろその方が豊かな気持ちになれる場合もある、ということにみんなが気付き始めているのだと思います。

資本主義が作り出した影が情報技術の進歩によって照らされ、「本当はそんな恐怖は存在しないのではないか?」とみんなが疑問を持ち始めている状態です。

 

皆さんも嫌な仕事を無理やりやって、何を買っていいのか分からない位の多くのお金を稼ぐよりも、自分の好きなことをやってある程度の収入がある生活を望んでいる人が周りに増えてきているのを実感しているはずです。

かつての大企業志向も影を潜め、働きやすい職場、働きたい職場に人が集まるようになってきています。

これは資本主義社会が生まれて以来、ほとんど全てお金で価値を測ってきたところから考えると異常事態です。

もちろんベースにはテクノロジーの発達や生産分野の機械化などの恩恵で生活コストが下がってきていることがあると思います。

 

資本主義社会から評価経済社会への価値の変換はさまざまな局面で見られ、2014年にFacebookが当時ほとんど利益を生んでいなかった「WhatsApp」を2兆円で買収したと言う話があります。

WhatsAppは当時ほとんど収益がありませんでしたが、Facebookはその「フォロワー数(4億人)」に目を付け、異例の2兆円で買収します。

これは収益に目を付けたのではなく、その後ろにいるフォロワ-を買収した、と言われています。

一昔前には信用を数値で目に見える形で表す際にはもっぱらお金の単位で表されましたが、現在はこのようにフォロワーや支持者、ファンの数も数値化できるようになってきています。

 

つまり、例え、現在お金を稼いでいなくても「人の評価が高いこと」はお金になる可能性もあるし、それ以上のメリットがあることをFacebookは何となく分かっていた、とうことになります。

 

そこで、私が冒頭に書いた話、「社会的には決して綺麗ではない、しかし、強烈に想いのこもった暖かいバラの絵」のようなものは、実際は資本主義下では売れないでしょうし、一円も生み出しはしません。

しかし、評価経済社会の価値観で考えてみると、これは「涙が出る程嬉しい」という非常に価値のある絵になります。

私のこの絵に対する評価は、「例え100万円貰っても人にあげたくない特別なもの」だからです。

 

ここで重要なことは、資本主義が評価経済社会に流れていくに従って、お金だけのやり取りが全てではなくなってくるということです。

想いの伝わるものであれば、それは充分価値がある、という事になってきている、ということです。

高齢者が価値を提供しあう社会では、実は”お金のやり取り”はあまり重要ではない。

少し話は変わって、私の父は元整備士です。今は63才で退職しています。しかし、今も自宅で整備士時代に培った技術と知識を使って、「電動で動くポスト」を自作したりしています。

 

うちの実家のポストは居間の窓のすぐ裏にあるのですが、父は「新聞を取りに行くのがめんどくさい」と、スイッチ類やベルトコンベアのベルトのようなものなどを自分で買ってきて、スイッチを押すと居間にポストが電動で窓から手が届くところまで上がってくる、という機械(仕組み)を自作していました。

また、私の知り合いの父と同年代の方は、自身の仕事の経験を活かして、定年後に、「湿度を感知して自動的に屋内に洗濯物が取り込まれる機械」を作った、と言っていました。

こちらは実物は見ていませんが、話を聞くだけで非常に素晴らしいアイデアと技術・知識であることが伺えます。

 

定年を迎えた父は、そういった作業をしている時は、まるで子供がプラモデルを作っているかのように活き活きとしています。

そばで見ていて、「生きがい」ってこれのことなんや、、と私はつくづく思いました。

 

こうやって考えてみると、高齢者(この二人はまだ高齢者になっていないかもしれませんが)は素晴らしい蓄積された技術や経験、知識があることは明らかです。

 

男性は仕事の技術、女性は子育てや家事の技術や知識は、恐らく私達若者が逆立ちしても叶わない程の蓄積があるはずです。「おばあちゃんの知恵袋」なんて言葉もありますよね。人生の熟練者ですから、それ相応のスキルはあって当然です。

 

ここまでは、恐らくみな何となく感じていることではないでしょうか。

問題はここからです。

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高齢者のスキルを活かす場所を作るには?

地域社会保険福祉

「それを認めて、活かす場所が地域には現在ほとんどない」ことが問題だと思っています。

調べてみると、NPO(非営利団体)などでそういった活動をしているところもわずかにありますが、認知度は皆無に等しいのではないでしょうか。私も知りませんでした。

 

この背景には、たとえ高齢者にそういったスキルがあっても「ビジネスやお金」には結びつきにくい、という事実があるからではないかと思います。

つまり、資本主義の社会通念では役に立たない、という判断をされてしまいがちなのだと思います。

この技術を一気にビジネスレベルまで上げてしまうと、あまりにもハードルが高すぎます。

 

しかし、ここで資本主義の「お金」主体の価値観をいったん放棄してみて、評価経済社会での「他者からの評価」主体に価値観を置き換えてみると、これは全然アリです。絶対に人の役に立つことが間違いないです。

つまり、なんでもかんでもビジネスやお金に換算しようという発想で考えると、「高齢者のスキルを認めて、活かす場所が地域には現在ほとんどない」という状況になるのは必然ではないか、と思います。

 

 

電気製品の不調(私の父は電気関係のマニアか?ってくらい詳しいです。)やなにか不便なものがあって、近所で困っている人の家にうちの父親が駆けつけて、その問題を機械を自作したり、専門的な技術や知識を使って解消する。

「本当にありがとう!助かったわ~」と心から感謝されて、こんなものしかないけれども・・・と言われながら「決して綺麗では無いけれども、想いのこもった暖かいバラの絵」を代わりにもらう。

 

父親もそんなもの本当は欲しくはないけれど(これは価値がない、くだらないと言う意味ではなく、個人の嗜好としてそういったものに興味が無いという意味です。)、全然悪い気はしていなくて、むしろ誇りに思いながらその絵を抱えて家に帰って来る。

そして、母親に照れながら見せて、自宅の玄関に満足そうに飾っておく。

 

この絵は、私の父が長い人生の大半を注ぎ込んできた「仕事に対する評価の証」、いわば「人生の勲章」です。

価値がないはずがない。そして、お金に換えられるわけがない、何よりも貴重な尊いものです。

 

私はこういった地域社会が理想のように思います。

 

そこでは、”お金以外の価値”のやり取りが成され、お互い心のこもった作業を通して自然に”活動≒リハビリ”を行っており、それが生きがいにも繋がっています。

活き活きと、困っている誰かを助けるために自身の持っている能力を活かす、そして感謝される、そんな社会や地域。

 

そこでは、私達が思っているほど「お金は重要ではない」のかも知れません。彼らにとっては、お金よりも価値あるものは”生きがい”そのものなのです。

まとめ

小難しい話もあったかもしれませんが、なんてことはない、日本の昭和初期の頃の下町(映画三丁目の夕日の世界観)をイメージすれば、おおかた私が言った社会のイメージに近いと思います。

日本の江戸時代なども、みんなで助け合って生活する工夫や知恵があったそうです。

難しく考える必要はなく、昔の地域の人と人との関係性を取り戻すことこそが地域社会に取ってこれから必要なことなのかも知れませんね。

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