物語「神様の思春期 ”経験の意味”」


私は、自分を大切にすることの重要性を常々お伝えしてきましたが、それを物語風にしてみました。

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まずは「神様の思春期”創生”」を読んでからこの続編を読んで頂くと内容が理解しやすいと思います。

今回も少しは役に立つ話だと思うので、暇つぶしに良ければ読んでみて下さい。

適正基準に違反せよ

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「光の塊」は自らの体を分解して、かけらにし、点在させることで私達を作り上げた。

「光の塊」は以下の様に言った。

 

 

私は私達が最も効率よく、最も最短のルートで成果を得るために、世の中の全てのシステムを作った。

 

だからあなたは、あなたのすべきことは、ただそのプログラムの中で自分の思うように、したいように生きれば良いだけである。

 

それ以外にすべきことなどひとつもない。

 

 

それですべてが完成する。

 

 

私はいつでも満足しているし、同時にいつでもあなた達を心配している。

魂を分けたあなたたちを、文字通り、「心を配って」造り上げた。

 

 

 

私は愛の対極のものとして「不安」を作った。

 

この不安は、実に様々に姿を変え、あなたの生活の至る所に隠されている。

 

聡明なあなた達だから、その不安から距離を置き、自分の人生を苦しみながらでも歩いていけることだろう。

私はそのように確信している。

 

 

しかし、過剰に不安に囚われる人、まだ不安から逃れる術を持たずに苦しんでいる人も多いことも知っている。

 

少しでもその不安が軽くなるように、本当のあなた自身の人生を早く歩き出せるように、一言だけアドバイスさせてほしい。

 

これから伝えることは理解しているかは別として、あなたはすでに知っていることだ。

私はあなたであるのだから、私が知っていることはあなたも知っている。

 

「適正基準に違反せよ」

 

私は苦しむ人たちにこの言葉を贈りたい。

スローガンとしてこの言葉を掲げて欲しい。

 

 

あなた達の作った、とても完全とは言えない社会では、法律、道徳、その他の適正な基準というものが存在する。

 

 

これは実に素晴らしいもので、多少のルールが無ければあなた達は精一杯に人生を生きることはできない。

私が不安を造り、肉体を作った様に、規制すること、制限を意識すること、不自由を知ることで、本当の自由が理解できるから。

そしてその中にしか、本当に輝く素晴らしい経験は存在しえないから。

 

 

しかし、この法律や道徳は過剰に用いられると、大きな弊害がある。

そして、どうやらこれらは本来の役割を超えて使われることの方が多い。

「過用が常用」されている。

 

薬を服用する人は身を持って知っているだろう。「絶対に飲み過ぎてはいけない」ということを。

お酒を飲む人も同じことを知っているはずだ。

 

 

社会全体では法律、個人レベルでは道徳、これらは薬と同じである。

 

適量は良い作用をもたらすが、過剰に飲み過ぎると、絶対にいけない。

 

親は子の未来の成長を願って、道徳を教える。その実態は何なのか理解しないままに。そして、そんな得体のしれないものを適量教えることは至難の業であり、大体において、教え過ぎる。

国・政治家は法律を作ることで、企業や社会の大きな枠組みを作る。

 

 

そして、時に、いや、やがて頻繁にそれを過剰に強要し始める。

「それがあなたのためだ」と言う言葉と一緒に。

 

 

そうするとどうなるか。

あなたは罪悪感という形に姿を変えた不安にいつも、どこでも悩まされるようになる。

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そして、姿を変えた不安は、自分で認識することが難しい。

 

 

罪悪感は人の生涯を暗く、輝きを失わせ、苦しませる。

 

罪悪感に悩まされる人は、人生で最高の経験であるはずの時、本来すべきことである「人生の楽しさ」に集中することができない。

 

相手や周りのことをいつも気にして、自分の人生の輝きが目に入らなくなる。

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少し分かりやすく、この「罪悪感を持った人生」がどんな状態かを表現するために、ここで一つ物語を紹介する

私があなた方の世界の作家の仕事を真似て作ったストーリーで、ある文豪と呼ばれる小説家がモチーフだ。

 

 

・・・少し余談だが、あなた達は「自分の言葉に責任を持つこと」を無意識に教えられている。

多くの人が気付いていないが、これも一つの刷り込まれた「偽りの適正な基準」である。

 

敏感な感性を持つ者は、いつでも自分の言葉に「違和感」を覚えるはずだ。

自分が感じている生々しい生きた感覚を、言葉・文字にした途端、あなたの元を離れた途端、それはもはや生きていない、ということを感じる。

他人に自分が感じている本当の言葉を伝えるためには、この矛盾をクリアする必要がある。

 

そこで、それを仕事にする者、作家は「他人に語らせる」ということを発明する。

自分ではどうしても語れないことをストーリーを作り、他人に語らせることで、自分の無意識の心理的な防御が外れた言葉を記すことができる。

 

物語は、真実を伝える場合、他人に心を伝える場合に、大変効果的な場合があることを、作家は知っているようだ。

 

話が逸れてしまった。しかし、これはこれで良い。

人生には回り道が必要だ。

「急がば回れ」と言う言葉があるように。

 

それでは私が作った物語を記す。

いかがだろうか?

「私は作品を書く合間に、こんなことばかりしている自分がほとほと嫌になり、世俗的なことを楽しみたい、と強く思った。

 

 そして、世俗的なこととは何かと考え、水族館に行くことを思い着いた。きっと水族館には世俗的な楽しみがある、と直感的に思った。

 

急いで一人で水族館に向い、そこに着くと、実際は世俗的な楽しみなどどこにも無く、あるのは水槽と大量の魚と、客を呼ぶために設けられたと思われる数匹の小汚い病気の様なペンギンだけだった。

 

 しかも、自分は魚などに一切の興味が無く、食べれるモノとしか認識していない。

 

正確に言うと、食べるのに手間がかかってめんどくさい、できれば避けたい食材、くらいにしか考えていない。

 

 そんな食材としてしか興味のない魚を、何分も何匹も、ただ見ているのは正気の沙汰ではないということに今気が付いた。

 

そんなことにも気付かないで家を嬉々として飛び出してきた自分に、またほとほと嫌気がさしてきた。

 

しかし、残念なことに、もう私は水族館の目の前にいる。

 

私は仕方なしに、なけなしのお金で私にとって大金である入場料2千円を払い、水族館の中を入口から出口まで息を切らして走り抜けるように飛び出て、また電車に飛び乗り、急いで家に帰ったのであった。」

 

あえてユーモアを含めて表現したが、この者の心の中を支配しているのは「罪悪感」に姿を変えた不安である。

 

この者のように、心に罪悪感があると、人生が「水族館の入り口から出口まで走り抜ける」ように、なんの感慨もなくただただ通り過ぎていく。

それは私の望んでいることではないし、あなたもそれを決して望んでいない。

 

 

 

強要する者たちは実に巧妙にあなたにこの種の不安を刷り込ませる。

 

 

あなたの「光のかけら」が人生で課題として求めていることですら、「そんなことはいけない、あなたのためにならない」と言って繰り返し、繰り返し否定する。

そして、時には罰を与える。

 

パブロフの犬を知っているだろうか?

知らなければググって欲しい。

 

いずれパブロフの犬の様にあなたはしたいことができなくなり、したくないと心から思うようになる。

 

 

こうなると、「人生で経験する」という最も大切なことが置き去りにされ、その適正基準を守ることだけのための人生となってしまう。

 

 

私はそんな魂をいくつも見てきた。

 

彼らは、勇気がないために、あるいは優し過ぎるがために、自分よりも他人を優先する。

親、友人、恋人、子供、先生、生徒、見ず知らずの他人・・

 

自分を優先することが相手の本当に求めていることである場合も、自分を優先せずに相手を優先し、相手も自分も満足できず、お互いに離れていってしまう。

最終的には孤独に怯えることになる。

 

その原因は姿を変えた不安である、道徳や適正と言われている基準に対する罪悪感であり、それへの過剰な反応だ。

 

 

そんな経験のある人はこの言葉を聞いてほしい。

「優しくあろうとする必要はない。あなたはすでに充分優しい。」

私はあなたをそのように初めから作った。

 

「気にし過ぎる必要はない。あなたは充分理解している。」

私はあなたを初めからそのように作った。

 

「あなたが本当に守らなけばいけないのは、他人ではなく、自分である。」

なぜなら、あなたは他人であり、他人はあなたであるからだ。

私はこの世界を初めからそのように作った。

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私のプログラムは完全過ぎるほどに完全で、一つも修正すべきところはない。

私はいつでも、あなたのいるところに「心を配って」いる。

 

そしてあなたが早く人生に輝きを取り戻し、する必要のない苦労を辞め、他人の為にではなく、あなた自身のためにする必要のある苦労を経験し、私の家に帰って来ることを楽しみにしている。

 

いつでも、いつまでも、ここであなたを待っている。

 

あなたの帰る場所はここ以外にない。

 

ここであなたをずっと待っている者はあなたの最大の理解者で、最大の友人だ。

どんな裏切りにも平然と耐え、どんな侮辱にも一切揺るぐことのない愛そのものだ。

 

忘れないで欲しい。

あなたはいつか必ず、そこに帰る。

約束する。

 

だから、安心して、心から経験しなさい。楽しみなさい。

水族館で、魚やペンギンの、自分とは異なる偉大な生命の生態に興味を示し、心ゆくまで堪能しなさい。

何時間かけても良い。

ゆっくりと味わいなさい。

なにも気にとがめることはない。

 

これは一つの例であって、別に、水族館でなくても良い。

あなたが興味を示すものを充分に堪能しなさい。

それが唯一の正解で、それ以外に答えはどこにもない。

それが”あなたの本当の経験”である。

 

最後に、優しすぎるあなたにもう一度伝えておく。

生きることが苦しくて、それでも精一杯生きているあなたにもう一度だけ、伝えておく。

 

「適正基準に違反せよ」

 

念のために言っておくが、私は法を犯せ、道徳を破れ、と言っているのではない。

あなたの中に作られた、「虚像の、適正な基準と思い込んでいるもの」に違反せよ、と言っている。

存在しないものに怯えるのはやめて、人生を能動的に楽しみ、経験して欲しいと言っている。

 

私が作ったものを人は「真実」と言う。

なぜなら、「真実とは存在するもののこと」だから。

そして、ここで存在するものは「私以外」にない。

 

私が作っていないものを人は「嘘」と言う。

なぜなら、「嘘とは存在しないもののこと」だから。

私以外のものはこの世に存在しない。

 

私はそんな基準を作っていない。

私の分身であるあなたを、「無駄に苦しめるもの」を、私が作るはずがない。

あなたの周りの誰か、もしくはあなたが勝手に作ったものだ。

そして、その基準はもはや作った本人ですら作ったことを忘れている。 そんなものに意味はなく、囚われてはいけない。

 

告白すると、私は「無駄」と言う言葉をあまり使いたくない。

無駄と言われているものの多くは、その人にとっては必要で重要なものであり、決して無駄ではないことが大半だからだ。

 

しかし、これだけは無駄と言い切れるものも存在する。

それが私が先ほどから言っている、「偽りの適正な基準」だ。

 

 

 

私の声明は以上である。

この声は今は多くの人には届かない。

しかし、ごく一部の人に届き、その人生を明るく照らす「スローガン」になると確信している。

 

私はこのメッセージを、手を変え、品を変え、ありとあらゆる方法であなたたちに届くまで送り続ける。

ある時は音であり、ある時は文字であり、ある時は親しい人の態度であるかもしれないし、その声であるかもしれない。

心地よい風である場合もあるし、寂しい気持ちに形を変えているかもしれない。

そして、いつかはこのメッセージが万人に届き、皆が正真正銘の自分の人生を歩き始めることを、私は知っている。

 

 

それは、百年先かもしれないし、千年先かもしれない。

しかし、その時間は決して長くない。

私は願いを「一瞬」で叶えることができるから。

 

 

少し忠告しておくと、あなた方の「神」は、願いを叶えると信じられている。

それは正しいが、間違っている。

 

なぜそれは間違えているのか。

私にとっての「一瞬」はあなた達と同じではないからだ。

 

なぜそれは正しいのか。

あなたが望むことは私が望むことであるからだ。

 

忘れてはいけない。

あなたは私であるという事を。

 

 

 

同じように、あなた方は、人の成長には「苦労する経験」が必要だと信じている。

それは正しいが、間違っている。

 

なぜ間違えているのか。

する必要のない、「虚像に基づいた経験による苦労」には何の意味もないからだ。

この場合の苦労は、成長できず、消耗し、枯れるだけだ。

 

なぜ正しいのか。

私があなたを作ったのは、「あなたの人生を」経験させるためだからだ。そしてそれは成長するためにある。

この場合の苦労・経験は成長に繋がる。

 

これを勘違いしている人があまりにも多すぎる。

 

 

忘れてはいけない。

私は、あなたがどこにいても、何をしていても、いつでも、心配している。

私は「心を配って」あなたを作ったから。

 

忘れてはいけない。

あなたは私であるという事を。

あなたがどこにいても、いつでも、心は私と一つである事を。

 

「苦しむ友よ、心の声を、聴け。

いつでも私は答える。あなたの求めに応じて。

いつでもそこに答えがある。

 

外ばかりを探すな。

あなたの中に私はいつまでも寄り添って、いる。」

まとめ

「手入れ」をされた盆栽は、枝を伸ばす方向が「自分ではない誰かに」決められてしまい、自分の思う方向に枝を伸ばすことができません。

 

同じように、基準を作られ、その中でしか生きることを許されない環境で育った人は、自分の枝を思う方向に広げることをためらってしまいます。

しかし、その基準は本当は存在せず、ただ本人が思っているだけと言う場合が多いように思います。

 

 

この基準を意識できる様になるだけで、人生は輝きを取り戻し、枝を自由に広げることができます。

 

あなたの中の適正な基準とは何ですか?

それは本当に実在するものでしょうか?

 

1度考えてみると良いかもしれません。

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